第3章
三年前のあの雪崩の後、彼は病院のベッドに横たわり、私の手を握って言った。
「彼女には命を救われた。感謝のしるしとして、まとまったお金を渡すつもりだ」
私はその時、笑ってこう答えた。
「あなたって、本当に優しいのね」
今思い返せば、あの時の自分の笑顔が恐ろしいほど滑稽に思える。
まとまったお金は、会社の役職へと変わった。感謝のしるしは、いつしか一つの帝国へと姿を変えていた。「仕事が忙しい」と言っていたあの夜の数々は、すべて彼女のために道を切り拓くためのものだったのだ。Lumièreのフラッグシップストアは、その一店舗一店舗が、私たちの結婚生活の時間を犠牲にして建てられたものだった。
胃の奥が激しく波打ち、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
「どうした?」
彼は私を支え込んだ。
「どこか具合でも悪いのか?」
綾美のハイヒールの音が近づいてくる。その声はどこまでも優しげだった。
「奥様、お顔の色がとても優れませんね。私が先ほど、何か気に障るようなことでも申し上げてしまったのでしょうか? ただ事実を口にしただけなのですが」
その一言一言が、鋭い針のように突き刺さる。
彼は顔を曇らせた。
「俺の妻から離れろ」
そして私を抱き上げると、パーティー会場から飛び出していった。
医師の診断によれば、特に大きな異常はなく、感情の乱れからくるものなので休養が必要とのことだった。
私はベッドに横たわり、ただ天井を見つめていた。彼が私の手を握りしめる。
「何か食べるものを買ってこよう。何が食べたい?」
「いらない」
それでも、彼は病室を出ていった。
スマートフォンが震えた。またあの見知らぬ番号からのメッセージだ。
『見た? 彼って本当にあなたのことを愛しているのね』
『でも、子供がいないのはやっぱり残念ね。私が一本電話を入れるだけで、彼はおとなしく私のところに飛んでくるわ。信じる?』
私は画面を凝視した。スマートフォンを握る指先が白く変色している。
信じる必要なんてない。
なぜなら数分後、病室のドアが開いたからだ。彼の手には食べ物が握られていたが、その顔からはすでに先ほどの優しさが消え失せ、代わりに焦燥と困惑が浮かんでいた。
「弥佳、ごめん。急を要する事態が起きてね。今すぐ対応しに行かなきゃならないんだ」
私は彼の袖を掴み、消え入るような声で言った。
「そばにいてくれないの? 私、一人じゃ怖い」
彼は言葉に詰まり、その瞳に葛藤の色を滲ませた。
だが結局、私の額にそっとキスを落とす。
「すぐに戻るよ。片付いたら、すぐに君のそばに戻ってくるから」
きびすを返し、足早に去っていく。
私は目を閉じ、一筋の涙を零した。
あと二日。あと二日だけ耐えれば、永遠にここから離れられる。
彼が去ってから三十分後、再び一本の動画が送られてきた。
画面に映っているのは、彼の実家のリビング。あの暖炉、あのクリスタルのシャンデリア。
彼はソファに腰を下ろし、三歳になる男の子を抱きかかえている。熱が下がったか確認するように、子供の額に手を当てていた。その顔に浮かぶ笑顔は、胸が張り裂けそうになるほど優しい。
傍らに座る綾美が口を開く。
『彼女のために色々と用意しているそうね? ナパバレーのワイナリーに、ヨーロッパのクルーザー、それから結婚八周年のサプライズも』
彼女は目元を赤く染めた。
『私も一つ欲しいわ。私のためにじゃない、この子のために。パパも自分のことを愛してくれているんだって、この子に分からせてあげたいの』
彼は眉をひそめる。
『君にはもう十分に与えたはずだ。子供の養育費に、君の役職、そしてLumièreのブランドそのものも。あまり欲張るな』
彼女は声を詰まらせて泣き出した。
『欲張ってなんかないわ。私はただ、証が欲しいだけ。この子が日陰の身なんかじゃないって証明が。一つだけでいいの。ナパバレーのワイナリーでも、クルーザーでも、記念日のジュエリーでも、何でもいい。この子の三歳の誕生日プレゼントとして。パパが自分のことをちゃんと覚えてくれているって、この子に教えてあげたいのよ』
動画の中で、彼は長い間沈黙していた。
そして、頷いた。
『分かった』
カメラが揺れ、画面に綾美の顔が大写しになる。彼女はレンズを見つめ、口角を上げて嘲笑を浮かべていた。
動画が終わる。
暗転した画面を見つめる私の指は、かすかに震えていた。
その時、彼からメッセージが届く。
『弥佳、ナパバレーのワイナリーの件なんだけど、トラブルが起きて再評価することになったんだ。でも心配しないで、もっといい場所を必ず見つけるから』
今日の午前中、彼がしてくれたばかりの約束を思い出す。なるほど、あの未来もまた、いつでも他人の手に渡るものだったというわけだ。
私はクルミにメッセージを送った。
『予定を早めて』
深く息を吸い込み、拓治にメッセージを打つ。
『今、どこにいるの?』
すぐに返信があった。
『どうした? もうすぐ戻るよ』
三秒後、私が余計な詮索をしないようにと慌てて言い訳を重ねてくる。
『分かった、ごめん。実は今、実家にいるんだ。母さんが君にあまり良い感情を抱いていないのは知ってるだろう? ちょっと家の用事を片付けていてね。すぐにアシスタントをそっちに向かわせるよ。これが終わったらすぐに戻るから』
画面に並ぶ文字を見つめたまま、私は返信しなかった。
バッグの中から二つの物を取り出し、ベッドサイドのテーブルに置く。一つは厳封された妊娠の診断書。もう一つは、彼女から送られてきたすべての動画と写真が保存されたUSBメモリ。
私は付箋にこう書き記した。
『夫へ。私が去った後、彼に渡してください』
そして上着を羽織り、病室を出て、外に停めてあったクルミの車に乗り込んだ。
クルミが尋ねる。
「もう行くの?」
「その前に、一つ寄ってほしい場所があるの」
実家のドアは少しだけ開いていた。
中からは温かみのあるオレンジ色の明かりが漏れ、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
私はドアの外に立ち、その隙間から中を覗き込んだ。
お盆を持った使用人が通り過ぎる。
「奥様、お茶をどうぞ」
その呼び名は、本来なら私のもののはずだった。
男の子が絨毯の上でオモチャで遊んでいる。家族たちが彼を囲んで笑っていた。
彼の母親が口を開き、その声が外まで響いてくる。
「さっきのは、またあの女からだったの?」
その口調には苛立ちが満ちていた。
「もう放っておきなさい。あなたにまとわりつく以外、何ができるって言うの? 子供一人まともに産めないのに。綾美さんがいなかったら、うちの血筋は途絶えていたところよ」
彼女は綾美に向き直り、打って変わって穏やかな態度を見せる。
「あなたも、自分と子供の体をしっかり労わりなさいね。決して無理をしてはいけないわよ」
彼はスマートフォンを置き、眉をひそめた。
「そんな言い方はよしてくれ。俺の妻は一人だけだ」
母親は鼻で笑った。
「法律上の妻に、何の値打ちがあるって言うの?」
彼は反論することなく、ただ低い声で言った。
「俺だって、綾美には十分に尽くしているつもりだ。Lumièreのブランドに、部門責任者のポスト、子供の費用だってすべて持っている。不自由な思いはさせていない」
彼の隣に座る綾美が、優しく微笑む。
「あなたが良くしてくださっているのは分かっているわ。私だって、これ以上を求めたことなんてないもの」
彼の父親が、彼の肩をポンと叩いた。
「お前のやり方で正しい。この子は我が三角家の血筋だ。それが何よりも重要なのだからな」
私の視界がぼやけていく。
なるほど、誰もが知っていたのだ。私だけが馬鹿みたいに、あの婚姻届にまだ意味があるのだと信じ込んでいた。
彼はソファに座り、片手を彼女の肩に回して、穏やかな笑みを浮かべている。
私は低い声で呟いた。
「さようなら。もう二度と会うこともない」
きびすを返し、車に戻る。
「海岸沿いのハイウェイに向かう?」
「ええ」
車は夜の闇へと滑り出していった。
拓治が父親と会社の件について話し合っていると、男の子が抱っこをねだって膝の上に這い上がってきた。彼は笑みをこぼし、子供を抱き上げる。
その時、突如として得体の知れない動悸が胸の奥から湧き上がった。
笑顔が顔に張り付いたまま凍りつく。
「どうしたの?」
綾美が異変に気づく。
彼は首を振った。
「いや、何でもない」
しかし、その不安は次第に強くなっていく。周囲の家族、子供、そして笑顔を眺めていると、病室でたった一人横たわっているはずの彼女の姿が、不意に脳裏をよぎったのだ。
押し寄せる潮のように、罪悪感がどっと込み上げてくる。
彼は子供を降ろし、スマートフォンを手に取った。アシスタントに電話をかけ、弥佳の様子を聞こうとした矢先、着信音が鳴り響いた。
「社長!」
アシスタントの声は激しく震えていた。
「奥様が、病院からいなくなられました! 奥様の乗った車が事故に遭ったんです! 海岸沿いのハイウェイで、ガードレールを突き破って海へ転落したと……!」
その瞬間、拓治は自らの心臓が鼓動を止めたかのような錯覚に陥った。
