第4章

 拓治の手からスマートフォンが滑り落ちた。その瞬間、彼の世界から重力が消え失せた。膝から力が抜け、立っていることすらままならない。

 リビングの喧騒が遠く曖昧に霞んでいく。脳裏に焼き付いているのは、一つの光景だけだった。ガードレールを突き破り、回転しながら漆黒の海へと転落していく一台の車——

 その中に、彼女がいる。

「嘘だ……」

 うわ言のように呟き、這うようにして立ち上がる。足をもつれさせながら、玄関へと駆け出した。

 母親がその腕を掴む。

「拓治、まずは落ち着きなさい」

 それを乱暴に振り払った。凄まじい力に、母親はたたらを踏んで後ずさる。

 綾美が追いすがってきた。

「一体どうしたの?」

「失せろ!」

 実家を飛び出し、車に乗り込むなりアクセルをベタ踏みした。車体は唸りを上げ、夜の闇へと吸い込まれていく。

 事故現場に到着すると、パトカーと救急車の回転灯が夜空を赤と青に染め上げていた。

 ガードレールには、ひしゃげた巨大な裂け目。眼下に広がるのは太平洋。黒々とした波が、荒々しく岩肌に打ち付けている。

 到着に気づいたSPたちが、慌てて駆け寄ってくる。

「社長、ここから先は危険です」

 拓治は制止する全員を突き飛ばし、ガードレールの裂け目へと歩み寄った。

 荒れ狂う波を見下ろす。暗く、冷たく、底知れぬ深淵。

 彼女は、この中に落ちたのか。いつも自分に微笑みかけてくれた、どこまでも優しいあの女性が、今この氷のような海の中にいるというのか。

 見えない巨腕に心臓を握り潰されたかのような激痛。鼓動を打つたび、刃物で肉を裂かれるように痛む。

 その場に崩れ落ち、アスファルトに拳を叩きつけた。何度も、何度も。指の関節が裂け、血が滲んでも、痛みなど微塵も感じない。

「俺のせいだ……」

 なぜ彼女を一人で病院に残した。なぜ自分が実家にいるなどと伝えてしまったのか。

 俺に会いたくて、無理をして車を出したに決まっている。あんなに具合が悪くて、退院したばかりだったのに……。

 すべては、自分が彼女を置き去りにし、綾美と子供の元へ行ったからだ。

 自らの手を振り上げ、全力で頬を張った。

 乾いた破裂音が響く。

 秘書が飛び込んできて、その腕を必死に押さえ込んだ。

「社長! やめてください!」

 拓治は秘書を払い除け、再び自身を殴ろうとするが、数人のSPに取り押さえられた。

「離せ!」

 血走った目で、獣のように抗う。

「俺が殺したんだ……」

 その夜から、拓治は動かせる限りのリソースをすべて投入した。

 民間の捜索救助隊、沿岸警備隊、ダイバー、それにヘリコプター。パシフィック・コースト・ハイウェイ沿いの数十マイルに及ぶ海域で、徹底的なローラー作戦が展開された。

 丸三日、三晩。

 しかし、波と岩礁に砕かれた車の残骸以外は、何も見つからなかった。

 遺体もない。彼女が生きている痕跡すら、何一つ。

 拓治は毎日現場に張り付いていた。泥と潮風にまみれてスーツはしわくちゃになり、顎には無精髭が伸びている。髪は乱れ、目は充血しきっていた。

 常に隙のない身なりをしていた巨大ビジネス帝国の総帥は、今や浮浪者のような風貌に成り果てていた。

 ある時は捜索隊に同行し、またある時はガードレールのそばに座り込み、ただ呆然と海を見つめ続けた。

 三日目の夕暮れ。沈みゆく太陽が、海面を血のような赤に染め上げていた。

 捜索隊の隊長が近づいてきて、言いにくそうに口を開きかける。

 代わって秘書が口を開いた。

「社長、この海域は潮流が激しく、海底の地形も複雑です……。生存の可能性は、限りなくゼロに近いかと。もう三日も一睡もされていません。どうか一度、お戻りになって休まれては」

 拓治は長い沈黙の末、独り言のように唐突に呟いた。

「明後日は、八周年の結婚記念日だったんだ。いろいろと計画していた……。ジュエリーを用意して、出会った場所、恋に落ちた場所、愛を誓った場所を巡ろうと……。それなのに……」

 秘書は深く息を吐いた。

「社長、奥様も、社長のこのようなお姿は見たくないはずです」

 そしてアタッシュケースから、封がされた書類袋とUSBメモリを取り出す。

「これは今朝、病院の奥様の病室で見つかったものです。看護師によれば、奥様から社長への残し物だと。どうか、ご自愛ください」

 拓治はその書類袋をじっと見つめ続け、やがてゆっくりと立ち上がった。

 車内は静まり返っていた。

 封を切る。強張った指で中身を取り出すと、それは妊娠の診断書だった。

 その紙切れを見つめたまま、頭の中が真っ白になる。

 妊娠。彼女が。

 俺たちの間に、子供ができていた。それなのに、自分は何も知らなかった。震える手で、USBメモリをカーナビのポートに差し込む。

 画面に並んだのは、数々の動画ファイルとスクリーンショット。すべて綾美から送られたものだった。一つ一つの挑発、見せつけ、裏切りの証拠が、そこに克明に記録されていた。

 ここ数日の、弥佳の不自然な振る舞いが脳裏をよぎる。真実が雷のように拓治を貫いた。

 彼女はすべてを知っていたのだ。すべての裏切りを目の当たりにし、二人分の命を宿しながら、一人でこの絶望を抱え込んでいた。

 そして、自ら命を絶つことを選んだ。

 拓治は両手で顔を覆い、押し殺したような獣の咆哮を漏らした。

 一時間後、彼の車は実家の門前に停まっていた。

 リビングに踏み込むと、室内は煌々と明かりが点いていた。両親と親族の重鎮たちがソファを囲んでいる。綾美は三歳になる子供を抱きかかえ、寝かしつけている最中だった。

 血相を変えて飛び込んできた拓治の姿に、全員が息を呑む。

 三日ぶりの帰宅。その風貌はあまりにも凄惨だった。しわだらけのスーツ、無精髭とやつれきった顔、そして血走った両目。

 彼は真っ直ぐに綾美へと歩み寄り、その腕から力ずくで子供を奪い取ると、傍らにいたシッターに押し付けた。

「連れ出せ」

 シッターは火がついたように泣き出す子供を抱え、逃げるように部屋を出ていく。

 顔面を蒼白にさせ、後ずさろうとする綾美。だが、拓治はその手首を万力のように掴み上げた。

「俺はお前が望むものをすべて与えた。Lumièreのブランドも、役職も、子供の養育費も。ただ一つ、妻という立場以外はな。そのことは、最初からわかっていたはずだ」

「どの面下げて、あんな動画やメッセージを彼女に送りつけた?!」

 綾美は震える声で弁解する。

「わ、私……そんなこと……」

「まだシラを切る気か」

 突きつけられたスマートフォンの画面には、USBメモリに保存されていたスクリーンショットが映し出されている。

「全部お前の仕業だろうが!」

 次の瞬間、容赦のない平手打ちが綾美の頬に炸裂した。

 リビングにいる全員が、声にならない悲鳴を上げる。

 父親が血相を変えて立ち上がった。

「何をしているんだ!」

 拓治は咆哮する。

「こいつのせいで、弥佳は死んだんだ! 俺たちの子供を身籠ったまま! これで満足か!」

 綾美は打たれた頬を押さえ、涙を流しながらも、その声には激しい憎悪が燃え盛っていた。

「どうして私ばかり責めるのよ! あの女は堂々とあなたの隣を歩いて、パーティであなたに抱き寄せられて、誰からも奥様って呼ばれてる! それに引き換え、私は何?! ずっと日陰者じゃない! あなたに子供まで産んであげたのに、一生表に出られないなんて! 嫉妬して何が悪いんですか! 真実を教えてやっただけでしょう!」

 拓治は冷酷に嗤った。

「その通りだ。彼女には婚姻届という絶対の証がある。あいつは俺の妻だ。最初から、そしてこれからもずっと」

 再び手を振り上げようとしたところを、父親とSPに羽交い締めにされる。

「いい加減にしろ!」

 父親が怒鳴りつける。

「外で子供が泣いているだろう! いつまでこんな真似を続ける気だ!」

 母親も泣きつくように諌めた。

「あの子はあなたの血を分けた子供なのよ」

 拓治は父親を振り払い、氷のような視線で綾美を見下ろした。

「今すぐ、子供を連れてここから消えろ。この家からも、会社からも、この街からもだ。一生遊んで暮らせるだけの金はくれてやる。だが、二度と俺の前にその面を見せるな」

 綾美は絶望に顔を歪めた。

「子供を、捨てる気……?」

「俺に子供などいない」

 その声は、背筋が凍るほど冷酷だった。

「俺にいるのは、妻だけだ。彼女は生きている。必ず見つけ出す」

 踵を返し、後ろに控えていた秘書に命じた。

「人員を増員しろ。世界中をひっくり返してでも探し出せ。友人、同級生、彼女が立ち寄ったあらゆる場所を洗いざらい調べ上げろ。いくら金がかかろうと、どんな手段を使おうと構わない」

 その瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。

「彼女は死んでいない。何を引き換えにしても、絶対に連れ戻す」

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