第2章

「ご家族の方は? 注意点もありますし、ご主人にも一緒に聞いていただきたいのですが」医師が言った。

桑野夜子は無理やり現実を飲み込み、乾いた喉で答える。

「仕事が忙しくて……来られません」

女医は青白い顔を見て眉をひそめた。

「忙しくても、奥さんがこんな状態で連絡もつかないなんて。ご主人、夫として失格ですよ」

桑野夜子は口角を引き上げようとした。笑ったつもりが、笑えなかった。

医師は首を振り、いくつか注意を告げて病室を出ていく。

扉が閉まると、桑野夜子はそっと、自分の平らな下腹に手を置いた。

ずっと前から、浅木辰也との子どもを夢見ていた。けれど彼は毎回きちんと避妊してきて、三年経っても授からなかった。

今回だけ――二か月ほど前、浅木辰也が酔っていて、家にゴムがなかった。

たった一度で、できた。

……このことを、浅木辰也に告げるべき?

前なら飛び跳ねて伝えたはずなのに、今は――。

その時、スマホがぶるっと震えた。

手に取るとニュースの通知。見出しの文字がやけに目に刺さる。

【社長奥様のためにパーティ開催! 名門の真愛が羨ましい】

写真が数枚。

浅木辰也が隣の鈴木真代の話を聞いているもの。彼女が水を差し出しているもの。鈴木真代が話す時、浅木辰也が彼女を見つめる表情。

コメント欄はすでに狂騒だった。

【やばい!浅木奥様と浅木様、並びが最高!】

【これぞ名門の恋愛って感じ】

【浅木様の奥さんを見る目、愛しかないじゃん!】

桑野夜子はその文字列を、目が痛くなるまで見つめた。

三年前。家が傾き、父は白髪の増えた頭で途方に暮れた末、浅木家の老当主と交わした古い婚約書を引っ張り出し、恥を忍んで浅木家へ頭を下げに行った。

大学を出たばかりの桑野夜子は、誇りもあったし、浅木辰也の心に別の人がいるのも知っていた。だから、そんな形で縛りたくなかった。

けれど反発しようとした彼女の隣に、浅木辰也が自ら立って言った。

「この婚約、俺が引き受ける」

後で理由を尋ねても、浅木辰也は答えなかった。

答えをもらえないまま、桑野夜子は勝手に期待した。

――もしかして、私には少しだけ特別なものがあるのかも。

だがあとになって知る。彼が結婚を承諾した頃、初恋の鈴木真代がちょうど国外へ出たのだと。

結婚してからの浅木辰也は、確かに彼女に「よく」してくれた。物質的に不足はない。必要な場には連れていく。夫婦の営みも多い。

そのたび桑野夜子は錯覚した。自分は彼の心に入れるかもしれない、と。

そしていつしか溺れ、抜け出せなくなった。

幸せになれる。そう信じかけた、その日に――鈴木真代が帰ってきた。

三年見てきた夢が、一瞬で砕け散った。

桑野夜子は皮肉に笑い、枕元の妊娠検査の結果紙を手に取る。

数秒見つめた後、躊躇なくびりびりに破き、ゴミ箱へ放り込んだ。

別荘に戻る頃には、外はすっかり暗かった。家は静まり返り、書斎の灯りだけが点いている。

桑野夜子はドレスを洗濯籠へ投げ、浴室へ向かった。

シャワーを終え、バスローブを羽織って出ると、浅木辰也がベッドに座っていた。

濃いグレーのガウン。胸元が開き、引き締まった胸筋がのぞく。指先に煙草。喉仏が色気を帯びて上下し、煙が端正な顔を霞ませる。

物音に気づき、彼が目を向けた。

濡れたまま乱れた黒髪。白い肌。ローブの隙間から覗く水気を含んだ素肌。雨に濡れた薔薇みたいに危うい。

浅木辰也の瞳が深く暗くなる。

「髪を乾かせ」

「うん」

桑野夜子は普段、髪を乾かす習慣がない。けれど浅木辰也はいつも半ば強引にそうさせる。機嫌がいい時は、彼自身が乾かしてくれることもあった。

乾かし終えてドライヤーを置き、桑野夜子は言葉を選んだ。

「浅木辰也、話が――」

その次の瞬間、男の手が彼女の手首を掴み、乱暴に引き寄せた。

「きゃっ」

柔らかなベッドへ投げ込まれ、直後に大きな体が覆いかぶさる。煙草の匂いをまとった男の気配が濃く、危険だ。

彼は唇を奪い、慣れた手つきで口内をこじ開け、呼吸ごと奪ってくる。

もう片方の手はローブの裾から入り、腰の脇を撫で上げていった。

「だめ……」

桑野夜子が反射的に抵抗しても、力の差は歴然だった。理性がほどけていく。

けれど彼の腹が本格的に迫ろうとした瞬間、桑野夜子ははっと冷えた。

私、妊娠してる。

医師は安静にって……こんなの、だめ。

「やめて、浅木辰也……や、やめて」

顔を背けてキスを避ける。

男は露骨に不機嫌になり、顎を掴んでこちらを向かせ、再び唇を塞いだ。

桑野夜子は抗えない。

その時、スマホが震えた。

浅木辰也の目に苛立ちが走り、ちらりと見るが無視しようとする。

だがすぐ、また震えた。

浅木辰也は顔を冷やし、身を伸ばしてスマホを取る。表示された名前を見た瞬間、彼は立ち上がり、バルコニーへ出て電話に出た。

カーテンは開いたまま。

桑野夜子は彼の背中を見つめた。口元に浮かんだ柔らかな笑みが胸を締め付ける。

結婚してから、彼が自分にこんな笑顔を向けたことは一度もない。相手は――鈴木真代だろう。

ほどなくして浅木辰也が戻ってきた。

桑野夜子は背を向けたまま、冷たい気配が近づくのを感じる。

二人とも黙っている。暗闇の中、感覚だけが過剰に研ぎ澄まされた。

どれくらい経ったか。背後でライターの音がした。

淡い煙草の匂いがまた漂う。

「……寝たのか」

掠れた男の声。

桑野夜子は返事をしない。妙に静かだった。

浅木辰也は彼女を見つめ、底の見えない光を目に宿す。

そして言った。

「桑野夜子。離婚しよう」

桑野夜子は目を閉じた。予想していた、と言わんばかりに。

「……いいよ」

浅木辰也の煙草を吸う動きが止まる。

「他に言うことはないのか」

「私に、何を言えって?」

浅木辰也が軽く鼻で笑う。

「やっぱりお前は昔から薄情だな」

薄情? 薄情なのはどっちだろう。

結婚を引き受けたのも彼で、離婚を切り出したのも彼だ。

「浅木辰也」

男は無意識に煙草を強く挟み、細い背中に視線を落とす。喉仏が小さく動いた。

「……なんだ」

桑野夜子は一言だけ落とした。

「三年前、桑野家を助けてくれて……ありがとう」

浅木辰也の目が翳り、自嘲気味に笑う。

「ご丁寧にどうも」

桑野夜子も、薄く笑った。まつげが静かに伏せられる。

ずっと言いたかった。今言わなければ、もう二度と言えないから。

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