第6章
医師の友人はほどなくしてやって来た。手には、救急から借りてきた救急箱。
「小山、どうすんのよ……」
「解熱の注射1本でいい」
小山は箱から薬液を取り出し、注射器に吸い上げる。指先でトントンと軽く叩いて気泡を抜き、そのまま刺す体勢に入った。
「ちょ、待って!」下津紗恵が不安そうに身を乗り出す。「あんた……ほんと大丈夫? 骨科でしょ……」
その一言で、小山の白い目が飛んだ。
「じゃあ、お前が打てば?」
「……はい、すみません」
下津紗恵は即座に黙り込み、へらっと笑って「どうぞどうぞ」と手で促した。
昏睡している桑野夜子の腕に針先が触れた、その瞬間。
下津紗恵が、なぜか背後でぽつりと呟く。
「夜子さ、今日ずっと吐きそうだったんだけど……熱のせいかな。打ったら少しはマシになるのかな」
小山の動きがぴたりと止まった。振り返り、低い声で訊く。
「ずっと吐き気があるって?」
「うん。旦那と喧嘩してる時も。ていうか私、玄関の外で見たんだよね。夜子が旦那にビンタしてさ……あれ、めっちゃ刺激的だった。うちの子、ほんと強い!」
小山はすぐ眉をひそめ、独り言みたいに呟く。
「嘔吐、情緒不安定……」
そして2秒後。彼は注射器を引っ込め、代わりに新しい針とゴムの駆血帯を取り出して、桑野夜子の腕をきゅっと縛った。
「……これ、別の科に診せた方がいいかもしれん」
その言葉に、さすがに鈍い下津紗恵も顔色が変わる。
「え……それって……」
「採血する。今の状態で勝手に薬は危ない。血を病院に持っていって、至急で検査に回す」
——
2時間後。
桑野夜子がようやく、もう一度目を覚ました。
ずっと付き添っていた下津紗恵が、慌てて身体を起こしてやる。
「なんで妊娠してるって言わなかったの! 今、かなり危ないんだよ!」
言い終える前に、扉がばっと開いた。
浅木辰也が入ってきて、下津紗恵の言葉を拾う。
「……何が危ないって?」
鈴木真代の件を片付けた直後、下津紗恵から皮肉たっぷりの電話が来た。急かされて戻ってきたところ、廊下で「危ない」という言葉だけが耳に引っかかったのだ。
「私……」
下津紗恵は迷った。夫婦喧嘩の最中に、外野が勝手に妊娠を言うのは違う気がする。しかも本人は明らかに隠したがっている。
二人が黙るので、浅木辰也は苛立ち、桑野夜子の腕を掴んだ。
「もういい。今日のお前、口を開いてもロクなこと言わない。病院行くぞ」
「行かない。熱と、ちょっとした眩暈だけ」桑野夜子は静かに手を振りほどいた。
——病院へ行けば、隠し通せない。
その返しはまだ「普通」だった。今日はこれ以上、喧嘩を続ける気はないのかもしれない。そう見えたからこそ、浅木辰也も話をする気になった。
彼は化粧台の椅子を引いて腰を下ろし、無造作に背もたれへ体を預ける。腕を組み、顎をわずかに上げて桑野夜子を見上げた。
気楽な姿勢なのに、上から押し潰してくるような圧だけが濃くなる。
「落ち着いたか。言え。何であそこまで荒れた」
まだ根に持ってるのか、と桑野夜子は心の中で毒づいた。……のに、口が先に動く。
「鈴木真代のとこ行ってればいいじゃん。なんでわざわざ私のとこ来て、存在感出してんの」
また刺々しい。
けれど浅木辰也は珍しく、説明するつもりらしかった。
「さっきの電話が気になってるのか」
「鈴木真代が追突事故を起こした。家族に言えなくて、泣きながら俺に電話してきた」
「緊急だった。放っておけない。……あいつは、俺に恩がある」
説明? そうかもしれない。
でも桑野夜子は、聞きたくなかった。
「あなたたちの話なんてどうでもいい。私には関係——」
言い切る前に、込み上げる吐き気が喉を焼いた。
闺蜜のベッドを汚すのが怖くて、慌てて身を乗り出す。だが勢い余って、桑野夜子は浅木辰也の膝に倒れ込んでしまった。
男の匂いが、いきなり肺の奥まで流れ込む。
その瞬間、奇妙なくらいに吐き気が引いた。潮が引くみたいに、すうっと。
桑野夜子は必死に体を起こし、滲んだ涙を乱暴に拭う。そして浅木辰也を睨みつけた。
「……早く帰ってよ。あなた見てると吐きそう」
傷つける言葉。それでも浅木辰也の目は揺れなかった。
彼の中で、ひとつ大胆な推測が形になる。
「桑野夜子。お前、妊娠してるのか」
情緒が乱れすぎている。吐き気も続いている。どう考えても不自然だ。
桑野夜子の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。
ここで誤魔化したところで、疑いを深めるだけ。だったら——もっと酷い言葉で突き放す。
「してたとしても、迷わず堕ろす。安心して。私も子どもも、あなたたちの邪魔になるくらいなら消えるから。これで満足?」
その言葉は、殴るより重かった。
しばしの沈黙のあと、浅木辰也は淡々と言う。
「それだけ元気に喋れるなら大したことないな。病人ぶった顔はやめろ」
「明日、オークションの宴がある。お前が必要だ。俺の妻として出ろ。配役、間違えるな」
桑野夜子は理解した。
離婚届に署名しても、手続きが一晩で終わるわけがない。世間でも、法律上でも——今の自分たちはまだ夫婦。
明日の会場で、鈴木真代を堂々と隣に立たせられない。だから「妻」の自分が必要。
……つくづく、鈴木真代のため。
布団の下で、桑野夜子は拳を握り潰すほど力を込めた。
苦しい。胸の奥が詰まって、息がうまく吸えない。
少し沈黙してから、彼女は窓の方へ顔を背けたまま、ぽつりと訊く。
「明日のオークションが終わったら……私は、あなたの世界から消えていい?」
浅木辰也の表情を見られない。あの底の見えない瞳に、もっと残酷なものが映るのが怖い。
だが、その反応は浅木辰也には「嫌悪を隠しきれない姿」に見えた。
彼は何も言わなかった。
肯定でも、逃避でもいい。沈黙は沈黙のまま、そこに落ちる。
桑野夜子はそれを読み取り、苦く笑う。振り返らないまま、さっきより少し強い声で言った。
「分かった。明日、時間通りに行く」
