第1章
佑莉視点
目を開けると、革と松の香りの芳香剤の匂いが鼻をついた。
頭が割れるように痛い。体の角度、手首の締め付け、背中から伝わる振動……すべてがおかしい。私は強く瞬きをして、焦点を合わせようとした。
私は車の中にいた。それも、猛スピードで走っている車の中に。
一体、何が?
両手は結束バンドでドアハンドルに固定されていた。声を出そうとして、口がガムテープで塞がれていることに気づく。恐怖が胸を貫き、息ができなくなった。
運転席に誰かいる。
顔を向けると、胃の奥が氷のように冷たくなった。
彼女だ。山田健二の実家の近所に住む、あの女。昨日、到着した時に一度だけ見たことがある。道の端に立ち尽くし、じっと私たちを見つめていた人だ。健二は気まずそうに手をりながら、私を急かして家に入れたものだ。
なぜ私が彼女の車に? どうして縛られているの?
必死に記憶を繋ぎ合わせようとした。私と健二は結婚式の準備のためにこの街に戻ってきた。彼の実家、リビングに積まれた装飾品の箱、祖母の着物を見せてくれた彼の母親。今朝……いや、今日の午後だ。私は街のケーキ屋さんにウェディングケーキを受け取りに行くと申し出た。健二は父親の手伝いがあるからと家に残った。
駐車場だ。ケーキの箱を持って自分の車に向かっていた。
そこで記憶が途切れている。
いや、違う。背中を突き抜ける鋭い痛み。ビリビリという音。崩れ落ちる足。
スタンガンだ。彼女にやられたんだ。
呼吸が荒くなり、口元のテープが白く曇り始めた。私はくぐもった、絶望的な声を漏らしながら手を動かそうとした。だが、結束バンドが肌に食い込むだけだ。
「目が覚めたのね」
彼女の声は平坦だった。こちらを見ようともしない。ハンドルを握る手には、力が込められていた。
テープ越しに何か言おうとしたが、狂ったような唸り声しか出なかった。
彼女は無視した。
「ねえ、笑えると思わない?」まるで普通の世間話でもするかのように、彼女は言った。「私、8年も待ったのよ。健二が戻ってくるのを、8年間も。それなのに、彼は帰ってきたと思ったら、あんたなんかを連れてきた」
車がわずかに蛇行した。窓の外を見て、心臓が止まりそうになった。
山道だ。片側は切り立った岩壁。もう片側は何もない。はるか下の闇と木々へ続く、断崖絶壁だ。
「おねが……」テープ越しに訴えようとしたが、それはただの情けない嗚咽に聞こえた。
「我慢しようとしたのよ」彼女の声が次第に大きくなる。「あんたなんて、ただの一時的なものかもしれないって。私のところへ帰ってくる前の、ちょっとした火遊びだってね。でも、結婚式の話を聞いちゃった。結婚式だって」
彼女は笑った。
「だから気づいたの。あんたには消えてもらうしかないって。それが唯一の方法よ。あんたが死ねば、健二は私のところに戻ってくる。単純な話でしょ」
嘘でしょ。嘘だ。この女、私を殺す気だ。
私は結束バンドを引きちぎろうと激しく身をよじり、ドアハンドルに手を伸ばし、何とかしようとあがいた。けれど、叫び声さえテープに阻まれて外に出ない。
「動かないで!」
彼女が金切り声を上げた。車が右に大きく傾き、崖の縁ギリギリに迫る。岩が崖下へ転がり落ちていくのが見えた。
彼女は息を吸い込み、ハンドルの動きを安定させた。再び口を開いたとき、その声は不気味なほど落ち着いていた。
「健二はあんたのことなんて忘れるわ。他の女たちのことを忘れたみたいにね。大切なのは私だけ。ずっとそばにいたのは、私だけなんだから」
涙が頬を伝い落ちる。鼻呼吸だけでは酸素が足りず、視界の端で黒い斑点が踊り始めていた。
その時、サイレンの音が聞こえた。遠くだが、確実に近づいてきている。
彼女はルームミラーを睨みつけた。「嘘でしょ!」
彼女はアクセルを思い切り踏み込んだ。
車がガクンと急加速し、スピードメーターの針が跳ね上がる。時速100キロ、いや、もっとだ。木々が残像となって流れ去り、カーブが次々と迫ってくる。
「邪魔なんてさせない」彼女は呟いた。「私たちを止めることなんてできないのよ。これは運命なんだから――」
目の前に急カーブが見えた。鋭い、ほぼ直角のカーブだ。それなのに、彼女は減速しない。
死ぬ。二人とも死ぬんだ。
私は目を閉じた。
衝撃。金属が悲鳴を上げ、ガラスが砕け散る。体が前につんのめり、シートベルトに激しく食い込む。エアバッグが顔面で炸裂した。轟音、激痛、そして――
無。
声。怒号。ひしゃげた金属をこじ開ける嫌な音。
動けない。考えられない。頭の中はホワイトノイズで満たされ、シートベルトが食い込んだ胸に鋭い痛みが走る。
「聞こえますか? わかりますか?」
誰かが私の顔に触れ、脈を確認している。結束バンドが切られ、口元のテープが剥がされた。私は空気を求めて激しく喘いだ。
「もう大丈夫ですよ。安全ですからね。今助けますよ」
ストレッチャーに乗せられ、見上げると、空は深い紫色に染まっていた。
生きている。ああ、本当に。私は生きているんだ。
喉の奥から嗚咽がこみ上げてきた。止められない。全身が震え出し、息が整わない。熱い涙が次々と溢れ出し、視界を滲ませた。死ぬんだと思っていた。あのカーブで目を閉じた時、この山道で死ぬのだと受け入れていた。なのに今、私は生きていて、涙が止まらない。
「大丈夫ですよ。もう安全ですからね。落ち着いて」救急隊員の一人が、私の目を見て穏やかに声をかけた。
でも、大丈夫なんかじゃなかった。目を閉じるたびに、あの迫りくるカーブがフラッシュバックする。衝突する瞬間の絶望的な恐怖が蘇るのだ。
私は首を回し、彼女がどこに運ばれたのか、自分に何が起きたのかを理解しようとした。救急隊員たちが運転席側から彼女を慎重に救出しようと作業している。警察も到着しており、無線からノイズ混じりの声が響いていた。
その時、健二の姿が見えた。
救急車の後ろに停まった車から飛び出してきた彼は、恐怖で顔面蒼白だった。
来てくれたんだ。
また新しい涙が頬を伝った。さっきとは違う涙だ。安堵感に襲われ、めまいがした。「健二……」掠れた声しか出ない。震える指先を彼へと伸ばした。
けれど、彼は私のストレッチャーの横を走り抜けた。
彼は、彼女の元へ走ったのだ。
「環奈!」彼の声が裏返る。「環奈、ああ、なんてことだ……君は一体何をしたんだ?」
伸ばした手が、力なくストレッチャーの上に落ちた。
え?
警官に取り押さえられそうになる彼女の肩を、彼が掴んだ。泣きじゃくる彼女は、彼にすがりつくように倒れ込んだ。
「だって……だって、健二のことが大好きなの」彼女が泣き叫ぶ。「あなたなしじゃ生きられない。私には無理なの……」
彼の腕が彼女の背中に回った。本能的なものだったのかもしれない。でも、彼は彼女を抱きしめたのだ。
私はストレッチャーに横たわったまま、その光景をただ見つめていた。
救急隊員が視界を遮り、ペンライトで私の瞳孔を確認しながら何か質問している。でも、耳鳴りが酷くて何も聞こえない。
救急車に乗せられる際、もう一度だけ彼女の顔が見えた。パトカーの窓越しに、彼女は私を見ていた。そして、笑っていた。
彼女の唇が動く。何を言ったのか、はっきりと読み取れた。
「ね? やっぱり私のことが大事なのよ」
