第3章

佑莉視点

 心臓が早鐘を打ち、私は一歩後ずさった。ドアノブを握る手に力がこもる。

「あなた……」私は声を絞り出した。

「怖がらないで」彼女の声は不気味なほど落ち着いていた。「ただ話がしたいだけ。お願い。健二を私に返してくれればいいの」

 私は無理やり呼吸を整えた。落ち着け。冷静になるんだ。

「環奈さん、あなたが健二を想う気持ちはわかるわ。でも、私たちはもう三年も付き合ってるの。婚約もしてる。それに、あなたと彼は……もうずいぶん前に終わったことでしょう?」

 彼女は微笑んだが、その目は笑っていなかった。

「終わった?」彼女は明るく、何でもないことのように笑った。「誰が終わったなんて言ったの? 私たちは絶対に終わらない。高校の頃から、彼は私のものだった。これからもずっと、私のものよ」

 背筋が凍りつくような感覚に襲われた。口の中が乾き、喉の奥で脈打つ音が聞こえる。何かがおかしい。彼女の私を見る目――まるで私が彼女の人生に侵入した邪魔者で、消し去るべき存在であるかのような目つきだった。

「でも、浮気したのはあなたじゃない」声を震わせないように必死だった。「あなたが裏切ったのよ。自分から手放したんじゃない」

 彼女の表情が一変した。笑みは消え失せ、目が見開かれ、狂気を帯びる。

「何て言ったの?」

「私はただ――」

「よくもそんなことを!」彼女の声が金切り声に変わり、私は思わず身をすくませた。「あれは浮気なんかじゃない! 間違いだったの! 私は若かったし、自分が何をしてるかわからなかっただけ!」

 彼女が一歩近づき、私はリビングへと後退した。足がソファの端に当たり、体勢を崩す。

「でも健二は知ってたわ!」彼女の手は震え、顔は真っ赤に上気していた。「私が愛してるのは彼だけだって! 彼だけなの! それなのに、あなたが現れた!」

 彼女は叫び始め、口から唾を飛ばしながら続けた。「あなたが奪ったのよ! 私から彼を盗んだの! 彼は私を許してくれるはずだった! 戻ってくるはずだったのに! あなたが! あなたが全てを台無しにしたのよ!」

 彼女がバッグに手を伸ばす。

 時間がスローモーションのように感じられた。彼女の手がキャンバス地のトートバッグに伸び、何かを握りしめる指先、そして引き抜かれた瞬間にきらりと光る金属。

 折りたたみ式のナイフだ。

 全身の血の気が引き、筋肉が硬直した。

 嘘でしょう。ああもう、殺される。

「環奈さん、お願い……」両手を前に突き出したが、震えが止まらず、どうにもならなかった。「落ち着いて、話し合おう……」

「話はもう終わりよ!」彼女が飛びかかってきた。「殺してやる! あなたが死ねば、すべて元通りになるの! 彼が私のところに戻ってくるんだから!」

 私はソファのクッションを掴み、盾にした。ナイフが布を切り裂き、白い綿が弾け飛ぶ。私は悲鳴を上げた。

 テーブルの周りをもつれるように逃げ回る。腰をテーブルの角に強打し、鋭い痛みが走ったが、止まるわけにはいかない。彼女が再びナイフを振り回し、私は身をかがめて避けた。

「環奈さん、やめて! お願いだからやめて!」

「嫌よ!」彼女の目は血走り、焦点が合っていなかった。もう私の姿さえ見えていないかのようだった。「死んでよ! あなたが死ななきゃ――」

 玄関のドアが乱暴に開け放たれ、その音に私は飛び上がった。

「環奈! やめろ!」

 健二の怒号が部屋中に響き渡る。

 環奈が凍りついた。彼の方を振り向いた瞬間、スイッチが切り替わったように、その目に涙が溢れ出す。顔がくしゃくしゃに歪んだ。

「健二……」弱々しい、壊れたような声だった。

 次の瞬間、彼女は一生忘れられない行動に出た。ナイフの切っ先を、自分自身に向けたのだ。

「ダメ――」言いかけた言葉が喉に詰まる。

 彼女は刃を手首に押し当てた。健二をじっと見つめながら、鋭く、一気に横へと引いた。

 血が噴き出した。

 スローモーションのようにその光景が見えた。生温かい雫が私の顔や首にかかり、私は息を呑んでよろめいた。顔に手をやると、べっとりと赤いものが付いた。

 血の臭いが鼻をつき、濃厚な空気に息が詰まりそうになる。呼吸ができない。胃がせり上がり、吐き気を催した。頭が働かない。目の前の光景を、脳が処理しきれずにいた。

 血がフローリングの床に水たまりを作り、広がっていく。あまりにも速く、速すぎる。そこら中が赤かった。床も、ソファも、そして私自身も。

「ねえ、健二?」環奈の声は穏やかで、安らかですらあった。「あなたが愛してくれないなら……私が生きている意味なんて、あるのかな?」

 彼女の足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。ナイフがカランと音を立てて床を滑り、赤い筋を残して止まる。

「環奈!」健二の顔から血の気が失せた。彼は駆け寄ると膝をつき、必死に傷口を両手で押さえた。指の隙間から血が滲み出し、彼女の腕を伝って流れ落ちていく。「嘘だろ、環奈、なんてことを! どうしてこんな!」

 彼が顔を上げ、私を見た。その瞳には、言葉にできない感情が渦巻いていた。怒り? パニック? それとも非難?

「佑莉! お前、環奈に何をしたんだ!? 一体何があった!?」

 その言葉が、物理的な衝撃となって私を貫いた。肺の中の空気がすべて弾き出されたような気分だった。

 私が、何をしたっていうの?

 身動きが取れなかった。床の血、自分の手の血、顔を伝い落ちる血を、ただ呆然と見つめていた。唇に血の味がする。不快で、間違った味。

「私は……何も。してない……」声が激しく震え、うまく言葉が出てこない。「彼女がここに来て、ナイフを持ってて、私を殺そうと……」

「だったらどうして刺激したんだ!」彼は怒鳴り声を上げた。その顔は怒りと焦燥で歪んでいる。「環奈は病気なんだぞ、佑莉! 精神的に不安定だってわかってただろ! どうして引かなかったんだ? どうして追い詰めるようなことをした!」

 彼の言葉が私を切り刻み、胸が締め付けられて息ができなくなった。

 被害者は私よ。殺されかけたのは私。自分で自分を切ったのは彼女なのに。どうして私が責められるの?

「健二、彼女は私を――」

「119番だ!」私の言葉を遮り、彼は叫んだ。私の話など聞いていなかった。彼は環奈を抱き上げると、シャツに彼女のどす黒く濡れた血がべっとりと付着した。彼はドアに向かって駆け出し、振り返りもしなかった。

 一度たりとも。

 私はリビングの真ん中に一人、取り残された。散乱したガラス片と、血と、切り裂かれたクッションに囲まれて。

 手が震えていた。全身の震えが止まらなかった。自分の体を見下ろす。シャツにも血、ジーンズにも血。爪の間にまで血が入り込んでいる。

「環奈は患者なんだ。お前が合わせてやるべきだった」

 彼はそう言った。「合わせてやるべきだった」? 何を? 脅されても? 襲われても? 殺されそうになっても?

 遠くでサイレンの音が聞こえ始めた時、私の中で何かが切れた。

 壊れたのではない。プツンと切れたのだ。骨が綺麗に折れるときのように、はっきりと。

 彼は、彼女を選んだ。

 彼女が私を縛り上げて崖へ連れて行ったときも、彼は真っ先に彼女の元へ走った。

 彼女が実家で私にナイフを向けたときも、彼は私を責めた。

 彼女が自分の手首を切った今、彼は私をまるで化け物を見るような目で見た。

 彼はいつだって、彼女を選ぶんだ。

 その思考はあまりにも鮮明で、鋭く、すべての恐怖と混乱を切り裂いていった。彼のそばにいては安全ではない。これからもずっと。彼女が何をしようと、何度私を殺そうとしようと、彼にとっての被害者はいつだって彼女なのだから。

 そして私? 私はトラブルの元凶だ。彼女を挑発し、追い詰め、「合わせてやらなかった」加害者なのだ。

 私は踵を返し、階段を駆け上がった。足音がドタドタと響く。

 スーツケースを引っ張り出し、手当たり次第に物を放り込んだ。服、洗面用具、充電器、パスポート、財布。手はまだ血まみれで、触れるものすべてに赤い染みを残していったが、構わなかった。服を畳むことさえしなかった。震える手で、ただひたすら、できるだけ速く詰め込んだ。

 逃げなきゃ。ここから出なきゃ。今すぐに!

 ナイトスタンドの上にスマホがあった。それを掴み上げ、メッセージアプリを開く。一番上には健二の名前があった。

 私は素早く指を動かした。血で濡れた指が画面の上で滑る。

「もう終わり。探さないで」

 送信ボタンを押した。

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