第3章
「……何?」
鈴宮若子はその場で硬直した。頭の中が真っ白になる。彼女は林原雨子にすがりつき、狂ったように揺さぶった。涙でぐしゃぐしゃになった頬に、乱れた髪が張りついている。
「ありえない……嘘よ! あなた、嘘ついてるんでしょう!」
林原雨子は、彼女が壊れていく様子を心底愉しむように、痛快さをにじませた笑みを浮かべた。
「私がそんな嘘ついてどうするの? あなたのご両親なら、今ごろ2階の霊安室に寝かされてるわ。信じられないなら、自分で見に行けば?」
鈴宮若子はすぐさま布団をはねのけ、もがくようにしてベッドを下りようとした。
だが、彼女の体はとっくにぼろぼろだった。
下半身の傷はまだ血を流し、腹部に走る痛みは、少し動くだけで刃物で裂かれるようだった。
片足を床につけた瞬間、膝が崩れる。
そのまま彼女は、どさりと床へ叩きつけられた。
鈴宮若子の喉から苦痛のうめきが漏れる。それでも意地だけで床に手をつき、必死に立ち上がろうとした。
だが腕もまた震えていて、自分の体すら支えきれない。わずかに身を起こしたところで、また床へ崩れ落ちた。
林原雨子は彼女の前まで歩み寄ると、右足を持ち上げ、ハイヒールのかかとで床についた鈴宮若子の手を踏みつけた。
「ぁあっ!!」
鋭いヒールが指を貫き、血がぶわっとあふれ出す。
「ごめんなさいね、踏んじゃった」
林原雨子は小首を傾げて笑い、さらにぐっと力を込めた。
鈴宮若子は痛みに全身を震わせた。爪がはがれそうなほどの激痛。それでも唇をきつく噛みしめ、顔を上げて林原雨子を睨みつける。
林原雨子はかかとで彼女の手の甲をぐりぐりとねじり、それから腰をかがめた。
「鈴宮若子、自分の今の姿、ちゃんと見えてる? 床に這いつくばって、まるで犬みたい。私があなただったら、そのまま死ぬわね。お父様とお母様のところへ行けるし、生き恥さらさずに済むもの」
鈴宮若子の瞳から、堰を切ったように涙があふれた。
けれど、声にならない。
喉の奥に何かが詰まったようで、途切れ途切れの嗚咽しか漏れなかった。
彼女はなおも起き上がろうともがく。だが手を踏まれていて、身動きすら取れない。
やがて林原雨子はようやく足をどけ、すっと背筋を伸ばした。そして一歩引き、塵でも見るような目で鈴宮若子を見下ろす。
鈴宮若子は手の傷も構わず、両手で床をつき、死にものぐるいで入口へ這っていった。
下半身からはなお血が流れている。這うたびに、床には長い血の筋が引かれていった。
白い床板の上に伸びるその赤は、あまりにも生々しい。ベッド脇から扉の前まで、ずるりと続いていた。
病室の扉までは、あとほんの数歩。
けれどその数歩が、彼女には果てしなく遠かった。
林原雨子はその場に立ち尽くしたまま、鈴宮若子が地を這う姿を眺めていた。口元の笑みは、ますます深くなっていく。
ようやく鈴宮若子が扉口までたどり着いたとき、視界にぴかぴかに磨かれた革靴が入った。
その視線が少しずつ上へ移る。
そこに立っていたのは沈村政志だった。無表情のまま、床に這いつくばる彼女を見下ろしている。
鈴宮若子はまだ血のにじむ手を伸ばし、彼のズボンの裾をつかんだ。爪の間は血で真っ赤に染まっている。
「沈村政志……教えて……私の子、死んだの……?」
沈村政志は彼女の手を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
「お父さんとお母さんも……死んだの?」
鈴宮若子の声は震えていた。涙が頬を伝い、床に落ちる。血と混ざり合い、じわりと広がっていく。
沈村政志は答えない。ただ黙って彼女を見つめていた。
そのとき、林原雨子が背後から慌てたふりで駆け寄ってきた。顔つきは一瞬で塗り替えられ、いかにも気遣わしげなものになる。
「あら、お姉様、どうしてベッドを下りたりしたんですか? ちゃんと横になっていてくださいって言ったでしょう。まだお体、全然よくなってないのに。どこへ行くつもりだったんです?」
鈴宮若子は反射的に林原雨子の手を振り払い、憎悪のこもった目で睨みつけた。そして歯の隙間から絞り出すように吐き捨てる。
「……消えろ」
林原雨子は振り払われて一歩よろめいた。表情が一瞬だけこわばる。だが次の瞬間には、また哀れっぽい顔へ戻っていた。
「お姉様、私はあなたのためを思って――」
鈴宮若子は取り合わない。なおも沈村政志の裾を引き、胸を引き裂くような声で叫んだ。
「答えてよ!」
沈村政志は何も言わなかった。
ただ身をかがめ、鈴宮若子を床から抱き上げると、そのままベッドのほうへ歩き出す。
背後から林原雨子が声を上げた。
「政志さん……」
「出ていけ」
沈村政志は振り返りもせず、冷たく言い放った。
林原雨子の顔がこわばる。唇がわずかに動き、何か言おうとしたものの、あの氷のような背中を見て、結局は口をつぐんだ。悔しさをにじませながら病室をあとにする。
沈村政志は鈴宮若子をベッドへ下ろした。
手を離そうとしたその瞬間、鈴宮若子は両手で彼の袖を必死に掴んだ。声はかすかに震えている。
「私たちの子は……? 生きてるんでしょう……?」
沈村政志はベッド脇に立ち、彼女を見下ろした。薄い唇がゆっくり開く。
「あの畜生の種の話はするな」
「畜生の種……?」
鈴宮若子は信じられないものを見るように彼を見つめた。次の瞬間、張り裂けるような声で叫ぶ。
「あなたの子でしょう! 沈村政志! 人間じゃないの!? 自分の血を分けた子まで認めないつもり!?」
「俺の?」
沈村政志は鼻で笑った。その目にはあからさまな嘲りしかない。
「鈴宮若子、おまえ、まだしらばっくれるつもりか。親子鑑定の結果は白黒はっきり出てる。あのガキは俺と何の関係もない」
「違う! あの子はあなたの子よ! 信じられないなら、もう一度親子鑑定をすればいいでしょう! 今すぐにでもできる!」
「黙れ!」
沈村政志は鈴宮若子の首をいきなり掴んだ。目は血走り、凶気を宿している。
「そんなにその雑種に会いたいのか? いいだろう。望みどおりにしてやる」
手が離された途端、鈴宮若子は激しく咳き込み、大きく息を吸い込んだ。喉が焼けるように痛む。
沈村政志は体を起こし、扉の外へ向かって言い放つ。
「持ってこい」
鈴宮若子は呆然と彼を見た。何をするつもりなのか、まるでわからない。
病室の扉が開き、部下のひとりが白い磁器の器を捧げ持って入ってくる。それをベッド脇の棚に置くと、無言のまま下がっていった。
鈴宮若子は顔を巡らせ、その器を見た。
濁った色の汁。その表面には薄い油がゆらゆら浮かび、何とも形容しがたい生臭さが立ちのぼっている。
「……何、これ」
声が震えた。
沈村政志は彼女を見据え、冷えきった笑みを口元に刻む。
「その雑種に会いたいんだろう? それを飲め。そうしたら会わせてやる」
鈴宮若子は一瞬きょとんとした。だが次には、沈村政志の袖を勢いよく掴み直す。絶望の底に沈んでいた瞳に、かすかな希望が灯った。
「やっぱり……あの子、生きてるのね……?」
沈村政志の目には、欠片の温度もなかった。
「飲めばわかる」
鈴宮若子はそっと袖を離した。
震える両手で器を持ち上げる。鼻を突くその生臭さに、今にも吐きそうになる。
それでも、子供に会えるのなら――。
彼女は込み上げる吐き気を必死にこらえ、歯を食いしばると、そのまま器をあおった。
ごく、ごく、と無理やり流し込む。
ほどなくして、器の中身は空になった。
鈴宮若子は器を脇へ置き、口元をぬぐう。そして真っ赤に充血した目で沈村政志を見上げた。
「飲んだわ……これで、子供に会わせてくれるんでしょう……?」
沈村政志はベッド脇に立ったまま、見下ろしていた。その口元が、ぞっとするほど冷たい弧を描く。
「もう会ったじゃないか」
「……え?」
鈴宮若子は呆けたように彼を見る。
沈村政志の視線が、空になった器へ落ちた。
そして、一語一語、突き刺すように告げる。
「今ごろ、おまえの中でひとつになってる」
