第4章
鈴宮若子は信じられないものを見るように沈村政志を見つめ、彼の言葉の意味を理解するまでにしばらくかかった。
「……今、なんて言ったの?」
沈村政志は口元を残酷に吊り上げる。
「失いたくないんだろ。おまえの子供。――ほら、いままたおまえの体に戻ってる」
「どうだ、鈴宮若子。実の息子の味は?」
「――あ゛っ!!」
胃の奥がぐらりとひっくり返る。鈴宮若子は空になった椀を凝視したまま、理性が粉々に吹き飛んだ。
彼女はベッドの縁へと飛びつき、指を喉へ突っ込んでかきむしる。
子供……私の子……!
沈村政志、どうして――。あれは、あんたの血だって……骨だって……!
胃酸に濁った汁が混じり、床へと吐き散らされる。鼻を刺す生臭さが立ちのぼった。
鈴宮若子は汚物の脇に這いつくばり、指を喉の奥へさらに押し込む。胆汁まで絞り出すように吐き、喉の内側が裂けて血がにじんだ。口角からぽたぽた落ちる赤が、死人みたいに白い頬を汚していく。
「出して……出してよ……!」
腹を滅茶苦茶に叩き、爪で自分の体を引っかく。皮膚に赤い筋がいくつも走り、肉がえぐれて血まみれになっても、痛みを感じていないみたいだった。
沈村政志は見下ろすように鼻で笑い、膝をついている鈴宮若子を足で蹴り払う。
「いまさら何の芝居だ。男と遊んでたとき、このガキのことは考えなかったのかよ」
鈴宮若子は顔を上げた。涙と血の汚れが頬の上でぐしゃぐしゃに混ざっている。
「沈村政志……悪魔! 地獄に落ちろ! 地獄に!」
彼女は這うように飛びつき、沈村政志の脚にしがみつくと、口を開けてふくらはぎに噛みついた。
血がすうっと流れ落ちる。だが沈村政志は眉ひとつ動かさず、足を振り上げて彼女を蹴り飛ばした。
鈴宮若子は壁に叩きつけられ、内臓がずれるような痛みで体を丸める。
「地獄?」沈村政志はネクタイを引き、袖口を整える。「おまえの親は、もうおまえのせいで地獄に行っただろ。そんなに好きなら見てこいよ。いい親御さんが死ぬとき、どれだけ無様だったか」
そう言うと、屈強な男が入ってきて、左右から鈴宮若子を抱え上げた。
鈴宮若子は必死にもがき、足をばたつかせる。
「離して! 離してよ! 行かない!」
「お父さんもお母さんも死んでない! 死ぬわけない!」
男たちは抵抗など意に介さず、引きずるように外へ連れ出した。
下腹部からはまだ血が流れている。病衣は赤く染まり、目を覆いたくなるほどだった。廊下には、引きずられた跡として長い血の筋が残る。
車は斎場の前で止まった。
ホールには黒白の花輪が二つ。中央に飾られているのは、鈴宮父と鈴宮母の遺影だった。
鈴宮若子は祭壇の正面、冷たいコンクリートへ放り投げられる。
彼女は膝をつき、写真の中の穏やかな両親の顔を、呆然と見上げた。
お父さん……お母さん……。
涙が止めどなくこぼれ落ちる。その横から伯父が駆け寄り、鈴宮若子の頬を張り飛ばした。
乾いた音が、静かな式場にいやに響く。
「この恥知らずの売女が! 鈴宮家の面汚し! おまえが親を生きたまま怒り殺したんだ! よくこの面で来られたな!」
「ぶち殺してやる!」
叔母が指を突きつけ、罵声を浴びせる。
「ネットの動画、全部見たよ。まさかあんたの親が、こんな下衆な牝犬を育ててたなんてね! さっさと死ねばいいのに!」
唾が顔に飛んだ。
鈴宮若子は避けもしない。言い返しもしない。
ただ背筋を伸ばして跪き、両親の顔を脳裏に焼きつけることだけに必死だった。
林原雨子が黒いワンピース姿で近づいてくる。目元を赤く腫らし、伯父の前に割って入った。
「伯父さん……お願いです、姉さんを殴らないで。姉さんだって、きっと魔が差しただけで……」
「雨子、おまえまで庇うな! 鈴宮家にあんな外道はいらん!」伯父は怒りで震えながら鈴宮若子を指さす。「さっさと失せろ! 親のあの世への道を汚すな!」
林原雨子は鈴宮若子の前にしゃがみ、ハンカチで頬の血をぬぐう。声を落とし、二人にしか聞こえない音量で囁いた。
「お姉ちゃん、見た? みんな、お姉ちゃんに死んでほしいんだよ。パパとママが飛び降りたときね、頭が割れて……脳みそまで出てた。血だまりで、すっごく惨めだった」
鈴宮若子の体がぶるぶると震える。見上げた先の、慈悲深い仮面をかぶったその顔を、睨み抜いた。
胸の底から噴き上がる憎しみが、視界を真っ赤に染める。
式場は三階だった。
大きな窓が開いていて、外の風が吹き込んでくる。
鈴宮若子は突然、跳ね起きた。
どこにそんな力が残っていたのか、自分でもわからない。ただ身体が先に動いた。林原雨子へ飛びかかり、両手で喉を掴む。
「クズ……全部おまえのせい!」
「死ね! 死ねよ!」
林原雨子は不意打ちで床に倒れ、必死に暴れる。
「たすけて……政志さん、たすけて……!」
鈴宮若子の目は真っ赤だった。爪が林原雨子の首の肉へ深く食い込み、そのまま引きずるように窓へ向かう。
「私が生きられないなら……おまえも生きるな! 一緒に地獄へ落ちよう!」
彼女の半身が窓の外へ乗り出す。林原雨子の髪を掴み、道連れに引きずり落とそうとした。
林原雨子は悲鳴を上げ、窓枠にしがみつく。爪が壁をひっかき、白い筋が何本も残った。
鈴宮若子が引きずり落とそうとした、その瞬間。
背中に衝撃が叩き込まれた。
沈村政志が駆け込み、鈴宮若子の背中――心臓のあたりを狙って容赦なく蹴り飛ばす。
凄まじい力だった。
鈴宮若子は吹っ飛び、祭壇前の供物台に激突した。
沈村政志は林原雨子を引き寄せ、胸に抱えて背に庇う。
林原雨子は彼の腕の中でがたがた震え、涙声で縋りつく。
「政志さん……こわい……」
鈴宮若子は床に伏したまま、ぴたりと寄り添う二人を見上げ――突然、笑った。
喉が裂けるほど、胸が千切れるほど。
「沈村政志……おまえは目も耳も潰れてる。林原雨子みたいな女を信じて……いつか絶対、後悔する!」
ぶふっと血が噴き出し、床を赤く染める。
視界が暗転し、鈴宮若子はそのまま崩れ落ちた。動かない。
……
冷たい空気。
土の匂いが濃く、そこに言いようのない腐臭が絡みついていた。
鈴宮若子は朦朧としながら目を開ける。
光がない。
手を伸ばしても指先すら見えない闇。
腕を動かそうとして、両手首が鉄鎖で壁に繋がれているのに気づいた。足首にも枷――逃げようにも、びくともしない。
なにかが、ふくらはぎの上を這っている。
ぬめり気があって、ぞっとするほど冷たい。
「……シュル……シュル……」
頭皮が粟立つ音が闇の中で響いた。
鈴宮若子は全身の毛が逆立ち、反射的に足を引っ込める。
ざざざ、ざざざ。
床を擦る気配が四方から押し寄せる。壁際。頭上。足元。どこにでも。
そのとき、不意に灯りが点いた。
白い光が刺さり、鈴宮若子は思わず目を閉じる。
やがて光に慣れ、周囲が見えた瞬間――頭の中が爆ぜた。
閉ざされた地下室。
床にも壁にも、色とりどりの蛇が、びっしりと蠢いている。隅でとぐろを巻いて舌をちらつかせるもの。鎖を伝って、彼女の体へ這い上がろうとしているもの。
そして、肩の上には――。
漆黒のコブラが、鎌首をもたげて乗っていた。冷たい鱗が首筋に張りつき、息を吸うたびにぞわりとする。
鉄扉の向こうから足音。
ガラス越しに沈村政志が立っていた。片手をポケットに突っ込み、氷みたいな目で鈴宮若子を見下ろしている。
その隣に林原雨子が寄り添い、手にはリモコンを握っていた。
「お姉ちゃん。政志さんがね、お姉ちゃんは刺激が好きだって言うから……私、手伝ってあげる」
林原雨子がリモコンを押す。
ぶおっと換気口が開き、鼻を突く薬品臭が地下室へ流れ込んだ。
それまで静かだった毒蛇たちが、一斉にざわめく。
うねり、のたうち、牙の並ぶ口を開く。
そして――鈴宮若子へ、雪崩れ込むように襲いかかった。
