第5章
鋭い牙が一瞬で鈴宮若子のふくらはぎを貫いた。
爆ぜるような激痛が脚の中で弾け、視界が白くなる。
若子は必死に右脚を振り払った。蛇がすっ飛び、壁に叩きつけられて鈍い音を立てる。
――息を吸う間もない。
肩に、骨の芯まで突き刺さるような痛みが走った。
黒いコブラが大きく口を開け、肩甲骨に食らいついている。牙が肉に沈み、毒が傷口から血へと流れ込んだ。
致命傷ではない。だが痛みだけが、四肢の隅々へ狂ったように広がっていく。
鈴宮若子は痙攣する身体を歯で噛み殺しながら、鎖で固定された両手をもがいた。背中に届かない。届くはずがない。
なら――壁だ。
彼女は肩を、背中を、壁へ叩きつけた。
一度。
二度。
皮が削れて裂け、血がべっとりと壁に擦り付けられるまで。
血の匂いに誘われた蛇の群れが、さらに狂暴に押し寄せてきた。
太腿。腕。脇腹。
ぬるりとした感触。鋭い噛みつき。肉を裂く痛み。
若子は床の上で転げ回り、喉が焼けるほど息を吸い込んだ。汗と血が混じって目に流れ込み、刺すようにしみる。
――嫌だ。
両親は惨殺された。子どもは煮込まれて、肉のスープにされた。
それなのに、仇の服の裾にすら触れられないまま、こんな光の届かない地下室で死ぬのか。
違う。死ねるはずがない。
生きて出る。沈村政志と林原雨子に、血の代価を払わせる。
若子は歯を食いしばり、激痛を飲み込み、重たい鎖を引きずって鉄扉へにじり寄った。
一寸動くたび、全身に絡みついた蛇が、さらに締め上げてくる。
「助けて!」
「誰か! 助けて!」
鉄扉の向こうへ叫ぶ。喉が裂け、声が掠れていく。
外には屈強な護衛が二人立っていた。両手を背中に回したまま、振り向きもしない。
特殊なガラス越しに見えるのは、凍りついたような無表情だった。
毒が体内で回る。四肢はしびれ、痛みだけが逆に鮮明になっていく。骨を砕かれ続けているみたいに――。
そのとき、廊下にコツ、コツ、とハイヒールの音が響いた。
林原雨子がガラス壁の外で足を止めた。黒いプラスチックの盆を抱え、口元を歪めるように吊り上げている。
雨子は壁のスイッチを押した。
鉄扉の下部が小さく開く。普段、餌を投げ入れるための投入口だ。
「お姉さん、蛇に噛まれるのって気持ちいい?」
拡声器越しの声は、甘ったるいほど可愛らしく作られていた。
鈴宮若子は血まみれのまま床に伏し、荒い呼吸を繰り返す。足首には数匹が巻きつき、ぎりぎりと締め付けていた。
彼女は顔を上げ、ガラスの向こうの林原雨子を睨みつける。奥歯が軋むほど噛み締めながら。
「林原雨子……いい死に方はしない……」
雨子が、ぷっと吹き出して笑った。
「私はぴんぴんしてるのに? 死ぬのはあなたのほうでしょ」
雨子は手元の盆を揺らす。
中には暗赤色の肉片が山ほど入っていた。鼻を刺す生臭さが、こちらにまで伝わってきそうだった。
「そうそう、お姉さん。この子たち、何日も空腹なの。政志さんがね、特別にご馳走を足してやれって」
若子は答えない。目を閉じ、襲い来る痛みの波に耐えた。
雨子は透明な密封袋を取り出す。
「お姉さん、これ、なーんだ?」
ガラス越しに袋を高く掲げる。中には、血で汚れた肉の塊。
「あなたの、その穢れた子の一部。政志さんはゴミ箱に捨てるつもりだったけど、私、優しいから。記念に残してあげたの」
鈴宮若子の視線が袋に吸い付く。目は真っ赤に充血し、白目に血走った筋が浮き上がった。
「林原雨子! 殺してやる! 殺してやる!」
彼女は狂ったようにガラス壁を殴りつけた。鎖がガンガンとぶつかるが、ガラスはびくともしない。
雨子はますます愉快そうに笑う。
「殺す? 何で? あなた、今は自分の身も守れないくせに」
そう言って、雨子は密封袋の中身を盆へざらりと移した。
投入口の前にしゃがみ、使い捨て手袋をはめた手で肉片をひとつかみ掴んで、若子に見せつける。
「よく見て。これ、軟骨。お姉さんの坊やの指――じゃない?」
「こっちも、ほら。やわらかくておいしそう」
鈴宮若子の頭の中が、ぱん、と音を立てて弾けた。
肉片を見て、彼女は首を振り続ける。壊れた玩具みたいに。
「やめて……お願い、やめて……」
「林原雨子……私が土下座する。何でもするから、お願い……」
雨子は腹を抱えて笑った。
「お姉さん、今の自分の姿、見えてる? 犬みたい」
唇が不自然なほど大きく弧を描く。
「助けてあげたいのは山々なんだけどね」
「スープの残りカスを捨てると空気が汚れるって、政志さんが言うの。だから蛇の餌にしろって」
「私、政志さんの言うことは絶対に聞くの」
そして雨子は、手にした肉片を投入口から放り込んだ。
べちゃり。
陰気で湿ったコンクリートの床に落ちる。
若子に群がっていた蛇たちが、濃い血の匂いに一斉に反応した。
彼女を捨て、うねうねと体をくねらせ、肉片へ向かって這い寄っていく。
「食べるなぁぁぁっ!」
鈴宮若子の悲鳴は、喉の奥から裂けるように飛び出した。
彼女は這い、跳ねるように突っ込んだ。
鎖がぴん、と張り、手首の肉に食い込む。血がだらだらと垂れた。
けれど痛みは、もう感じない。
頭の中にあるのはひとつだけ。
――あれは、私の子。
九ヶ月抱えて、まだ一度もこの世界を見せてやれなかった、私の子。
太い大蛇が真っ先に肉片へ辿り着き、口を開けた。
吞み込まれる、その寸前。
若子は床に倒れ込み、肉片を奪い取った。
「どけ! 私の子に触るな!」
肉片を胸元に抱きしめ、必死に庇う。涙と血が顔じゅうに塗りついた。
餌を奪われた大蛇が、怒りに身を起こす。
血盆の口が迫り、若子の腕へ噛みついた。ぐい、と引きちぎる。
皮膚と肉が無理やり裂け、血が噴き出して肉片に飛び散った。
彼女の両手は噛み荒らされ、骨が覗くほどに崩れていく。
それでも離さない。
身体で床の肉片を押さえ込み、散った欠片を両腕で必死にかき集め、腹の下へ引き寄せた。
「食べないで……お願い、食べないで……」
泣きながら懇願する。声は擦り切れて、もはや言葉にならない。
蛇は人の言葉など理解しない。
腕や太腿を伝って次々と登り、毒牙をむき、狂ったように噛み裂いた。
青い毒蛇が側頸に食いつく。
別の蛇が服の中へ潜り込み、肌に深い血の筋を刻む。
鈴宮若子は身を丸め、血肉の壁になって肉片を守り続けた。
「大丈夫……ママが守る……」
「ママは、ここにいる……」
泥と生臭さにまみれた肉片を胸に押し当て、神経質に呟き続ける。
毒が回り、彼女はごふっと大量の血を吐いた。胸元の肉片に、熱い赤が降りかかる。
「怖くない……怖くない……」
理性はとうに崩れ落ちていた。
腕の中の肉片が、まだ温かい赤ん坊だと信じ込んでいる。
蛇はさらに増えた。
餌の匂い。若子から溢れる、もっと濃い血の匂い。
一本、また一本。
びっしりとした毒蛇が脚から登り、太腿に巻きつき、腰を締め上げる。
いちばん大きな大蛇が腕を離し、背中を這い上がっていく。
太い胴が、首へ――ぐるり、ぐるりと巻きついた。
締まる。
ぱきり、と乾いた音。
肋骨が折れた。折れた骨が肺に刺さったのか、呼吸が穴の開いた笛みたいに漏れる。
もう、もがく力すら残っていない。顔は紫色に膨れ、額の血管が浮き上がる。
口を大きく開けても、声が出ない。
それでも両手だけは、胸元の肉片を死ぬほど固く抱きしめ続けていた。
ガラスの外で、林原雨子が腹を抱えて笑い転げる。
「ははは! お姉さん、その姿、ほんっと下品で最低!」
「その穢れた子と一緒に、地獄に落ちなよ!」
窒息の重みが増していく。
肺の空気が、少しずつ押し出され、何も残らなくなる。
鈴宮若子の視界は滲んだ。
景色は次第に血の赤で塗り潰され、毒蛇の群れが彼女を完全に呑み込む。
意識が、暗闇の縁から――静かに、深く、落ちていった。
