第6章

鼻を突く化学薬品の臭いが、鈴宮若子の鼻腔を一気に貫いた。

若子は反射的に冷たい空気を吸い込み、むせ返るように激しく咳き込む。

冷たい液体が、首元まで達していた。

全身の皮膚という皮膚が、痛みを叫んでいる。

毒蛇の牙に貫かれた無数の傷口が、高濃度の薬液に浸されていた。肉がめくれ、痛覚が何倍にも膨れ上がる。蛇に噛まれたときより、よほど耐えがたい。

若子が必死に腕を持ち上げると、ばしゃりと水しぶきが跳ねた。

「起きたか」

低い男の声が、頭上から落ちてくる。

若子はびくりと身を震わせ、激痛をこらえながら顔を上げた。

巨大な貯水槽の縁に立っていたのは、沈村政志だった。

仕立てのいい黒いスーツ。袖を少しだけまくり、指の間には燃えかけの煙草を挟んでいる。

周囲には煙が薄く漂っていた。

一方、若子は得体の知れない液体に浸され、この貯水槽の中に沈められている。

若子は口を開いたが、喉から出たのはかすれた音だけだった。

「……これ、なに……」

沈村政志は灰を落とし、淡々と言う。

「高濃度の消毒液だ」

若子の身体が、凍りついたように強張った。

政志は煙草を揉み消し、そのまま無造作に水槽へ放り投げる。

ジュッ——と短い音がして、火の消えた吸い殻が若子の頬の近くで沈んだ。

「お前は汚すぎる」

男の手が若子の顎を掴み、無理やり顔を上向かせる。

「何人もの男に触られて、蛇の巣でも転げ回った。消毒液に何日か漬けておかないと、洗い落とせるわけがないだろ。お前の薄汚い骨に染みついた、吐き気のするものをな」

若子は下唇を噛みしめる。口の中に鉄錆の味が広がった。

「沈村政志……もう、殺して……」

「死にたいのか?」

政志が冷笑し、若子の頭を消毒液の中へ力任せに押し込んだ。

鼻を刺す液体が、口と鼻へ容赦なく流れ込む。

若子は両手で必死に縁を掻きむしる。

数秒後、政志は若子の髪を掴み、水面から引きずり上げた。

若子はがはっ、がはっと喘ぎ、血の混じった液体を塊ごと吐き出す。

そのとき、重い引き戸が乱暴に開いた。

林原雨子が、ぶかぶかの病衣姿で立っていた。顔色は紙のように白い。

雨子はふらつく足取りで近づき、沈村政志のそばで止まる。

「政志さん……」

雨子は政志の裾を掴み、消え入りそうな声で言った。

「お姉さんを……もう、いじめないで……けほっ、けほっ……」

途端に激しく咳き込み、ハンカチを口に押し当てる。外した瞬間、そこには目を刺すような鮮紅がべったりと滲んでいた。

沈村政志は即座に腰を折り、雨子を毛布ごと抱き上げる。

「医者、どういうことだ」

白衣の中年男が医療鞄を提げて駆け込んできて、汗だくで雨子の瞼を開き、手早く診る。

「沈村さん……林原さんは造血機能が落ちています。臓器にも衰えが見え始めていて……白血病の疑いがあります」

医者は額の冷や汗を拭った。

沈村政志の顎がぎゅっと引き締まり、目に信じがたい色が宿る。

「……雨子は、どうすればいい」

「骨髄移植しか、助かる道はありません」

「こいつから取れ」

政志は迷いなく、水槽の中の鈴宮若子を指さした。

若子の血が、一瞬で逆流したかのように冷えた。

医者はその指の先を見て、顔色を変える。

「沈村さん、鈴宮さんの状態は最悪です! 流産で大量出血したばかりで、全身に重度の裂傷もあります。それに蛇毒まで……いま採血や骨髄採取をしたら、命に関わります!」

「死のうが生きようが、俺に何の関係がある」

沈村政志はそう吐き捨てると、水槽へ大股で寄り、若子の腕を掴んで消毒液から引きずり出した。

若子の身体が硬いタイルに叩きつけられ、痛みに身を丸める。

水滴が顎からぽたぽた落ち、床に淡い赤の水溜まりを作っていく。

「沈村政志……」

若子は政志の革靴の縁を両手で掴み、爪が割れそうなほど力を込めた。

「私は……浮気なんてしてない。あの子は、あなたの子よ。お願い……」

沈村政志は若子の手を蹴り飛ばした。

「まだ嘘を吐くか」

衝撃で若子の内臓がずれたように痛み、口から消毒液を吐き出す。そこに血の塊が混じり、目を背けたくなるほどだった。

林原雨子は力なく首を振り、憔悴した顔で囁く。

「政志さん、もういいの……。お姉さん、こんなに可哀想……私、骨髄なんて……。私が死んでもいいから、あなたたちが……」

「黙れ!」

沈村政志は医者に向かって怒鳴りつけた。

「さっさとやれ! 採血のやり方まで俺が教えるのか!」

医者は震えながら医療鞄を開け、太い注射器、採血バッグ、骨髄穿刺針を取り出す。

屈強なボディガードが数人、雪崩れ込むように若子へ飛びつき、左右から肩と脚を押さえつけた。

若子は必死に身をよじる。

「やめて! 放して! お願い、放して!」

手足をばたつかせても、男たちはびくともしない。若子は床に縫いつけられたように動けなかった。

沈村政志が近づき、若子の暴れる右手を靴底で踏みつけた。

骨が軋む、かすかな音。今にも折れそうだった。

若子は悲鳴を上げた。

「抜け」

政志は眉間に皺を寄せ、踏みつける力をさらに増していく。

医者は注射器を持つ手が激しく震えていた。

止血帯で若子の腕を縛り、しぼみかけた静脈を探し当てると、勢いよく針を突き立てる。

暗赤色の血が透明なチューブを走り、採血バッグへ勢いよく流れ込んだ。

若子の身体がびくびくと痙攣する。

血を奪われるたび、体温が少しずつ剥がれ落ちていった。

もともと青白い顔は、さらに色を失う。唇は灰のように冷たく、死んだ色になっていく。

一袋目が満ちた。

医者はためらいがちに沈村政志を見る。

「沈村さん……もう限界です! これ以上は失血性ショックを起こします!」

「続けろ」

沈村政志は眉一つ動かさない。

林原雨子は傍らでハンカチを口元に当てたまま、隠すように口角をわずかに吊り上げた。

そして身体を少し傾け、鈴宮若子にだけ届く息で囁く。

「お姉さん……あなたの血も、あなたの骨髄も、もうすぐ全部、私のもの。あなたの全部、丸ごと受け取ってあげる」

若子は雨子の偽善の顔を、目を逸らさずに睨みつけた。

胸の奥で憎しみがどろどろと煮えたぎる。

飛びかかってその顔を引き裂きたいのに、身体が重すぎて、指一本持ち上がらない。

「骨髄穿刺の準備を」

医者の声も震えている。

ボディガードが乱暴に若子をうつ伏せにひっくり返した。

冷たいヨードが腰のあたりに塗り広げられる。

若子はもう抵抗をやめ、押さえつけられるがままになった。

太い骨髄穿刺針が一気に皮膚を破り、骨膜を貫いて、骨へ突き立てられる。

全身を貫くような激痛が走り、若子は喉が裂けるほどの叫びを上げた。

だがすぐに、声すら出なくなる。

消毒液で濡れた病衣が、冷や汗で一瞬にして肌へ張りついた。

医者は汗だくで骨髄液を引いていく。

赤い液体が、注射器の中を少しずつ満たしていった。

沈村政志はようやく、若子の手を踏む足を離した。

若子の右手が、力なくタイルの上に落ちる。

視界が滲み、耳に届く音が遠ざかっていく。

そして——闇が、完全に彼女を呑み込んだ。

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