第7章
注射器の中が、ようやく赤い液体でいっぱいになった、その瞬間だった。
鈴宮若子の頭が、がくりと力なく横へ傾く。
完全に動かない。
医者の手が震え、注射器が床に落ちた。
あわてて鈴宮若子の鼻先に手をやる。次の瞬間、背中が冷や汗で一気にびっしょり濡れた。
「沈村さん! 鈴宮さんがショック状態です!」
沈村政志は一瞬きょとんとしたあと、眉間に深い皺を刻んで医者をにらみつけた。
「……何だって?」
「ただ採血しただけだろう。どうしてショックなんか起こすんだ」
すると、その言葉を聞いた林原雨子の目に、すっと計算高い光がよぎった。わざとらしく肩を落とし、いかにも傷ついたような声を出す。
「お姉さん、きっと私に骨髄を提供したくなくて、気を失ったふりをしてるんです」
林原雨子は沈村政志の袖をつまみ、くいっと引いた。
「政志さん、もういいです。お姉さんはあんなに私を憎んでるんですもの、進んで助けてくれるはずありません。たとえこのまま病気で死ぬとしても、そんなふうに無理をさせたくないです」
沈村政志は大股で歩み寄ると、濡れそぼった鈴宮若子の髪を乱暴につかんだ。
そのまま強引に頭を引き上げる。
鈴宮若子は目を閉じたまま、顔色は灰のように白い。
どれだけ引っ張られても、ぴくりとも反応しない。
沈村政志は鼻で笑い、その頭を乱暴に放した。
鈴宮若子の体はどさりと床へ投げ出され、まるでぼろぼろの布人形みたいに転がった。
それを見下ろしながら、沈村政志は冷たく笑う。
「まだ意地張るのか? 死んだふりまでして」
それから医者へ顔を向け、凍りつくほど冷えた声で言い放った。
「適合検査なんかもういい。そのまま手術室へ運べ。骨髄を抜け」
医者は顔色を変え、後ずさった。
「沈村さん、それは規則違反です! 今の鈴宮さんの状態は極めて危険です。無理に骨髄を採取すれば、本当に命を落とします!」
だが次の瞬間、沈村政志は脇にあった医療ワゴンを蹴り飛ばした。
ガシャアッ――と、ステンレス器具が床一面に散らばり、耳障りな音を立てる。
「お前たちは、俺に指図するために雇われてるのか?」
低く、怒気を含んだ声が病室に響いた。
「さっさとやれ。あいつが死んだら、お前たち全員ただじゃ済まない」
医者はぶるぶると震え上がった。
もう逆らえない。あわてて数人のボディガードを呼ぶ。
男たちはすぐさま駆け寄り、鈴宮若子の腕をつかんで無理やり持ち上げた。
ずるずると引きずられていく鈴宮若子のつま先は、力なく床を擦る。
廊下には、長い血の跡が一本、べったりと残った。
まぶしい手術灯が点る。
体を引き裂かれるような激痛の中で、鈴宮若子はわずかに意識を取り戻した。
うつ伏せのまま手術台に縛りつけられている。
腰の後ろからは、骨まで砕けそうな激痛が突き上げていた。
太い骨髄穿刺針が、そのまま脊椎へ突き立てられているのだ。
そのとき、不意に林原雨子と沈村政志の声が耳に入った。
「政志さん、さっき先生に言われたんです。私、誤診だったみたいで……白血病じゃありませんでした」
「ごめんなさい。お姉さんを手術台にまで上げてしまって……全部、私のせいです」
沈村政志の声には、驚くほど何の感情もなかった。ただ淡々と林原雨子を慰めている。
「気にするな。誤診は君のせいじゃない」
「君が無事ならそれでいい」
「骨髄が要らないなら、中の女は引きずり出せ」
鈴宮若子は手術台に伏せたまま、十本の指で縁を食い込むほど強くつかんだ。
爪が、ぱきりと折れる。
林原雨子は病気なんかじゃなかった。
全部、あの女が仕組んだ罠だったのだ。
叫びたかった。
林原雨子の正体を暴いてやりたかった。
なのに喉はかすれ、声ひとつ出ない。
全身から力が抜けていく。視界も、じわじわと滲んでぼやけていく。
やがて目の前が真っ黒に染まり、鈴宮若子は再び果てのない闇へ沈んだ。
次に目を覚ましたとき、周囲は不気味なほど静まり返っていた。
鈴宮若子は病院のベッドに横たわっていたが、指一本すら持ち上げられない。
少しでも身じろぎすれば、腰の後ろに鋭い痛みが走り、冷や汗が噴き出す。
頭上では点滴が、ぽた……ぽた……と規則正しく落ちていた。
そのとき、病室の扉が開く。
入ってきたのは林原雨子だった。
ベッドのそばまで来ると、彼女は鈴宮若子を見下ろして、せせら笑う。
「お姉さん、ほんとにしぶといですね。あれでも死なないなんて」
鈴宮若子は歯を食いしばり、喉の奥から砕けた声を絞り出した。
「林原雨子……この、毒婦……」
林原雨子は軽蔑しきったように唇を吊り上げた。
ポケットから、ラベルのない小さなガラス瓶を取り出す。
続いて使い捨ての注射器も。
慣れた手つきで、瓶の中の透明な液体を注射器へ吸い上げていく。
「お姉さん、生きてるだけで目障りなんです。政志さんはあなたを嫌ってますけど、それでも息がある限り、私は安心して眠れません」
林原雨子は注射器を持ち上げ、点滴のボトルへ針先を向けた。
「これ、かなりのお金をかけて手に入れたんですよ。これを入れれば、すぐに心不全で死にます。しかも医者にはまずわからない。骨髄採取のあとで衰弱しきって、持ちこたえられなかった――そう判断されるだけです」
ぷすり、と針がゴム栓を貫く。
透明な液体が、じわりじわりと流し込まれていく。
その瞬間、鈴宮若子の頭の中で何かが爆ぜた。
死ねない。
こんな女の手で、絶対に死んでたまるものか。
子供の仇もまだ討っていない。
両親の無念だって、まだ晴らしていない。
どこから湧いたのか、自分でもわからない力が体の奥底から噴き上がる。
鈴宮若子は、点滴の刺さっていないほうの手を勢いよく持ち上げた。
そのまま林原雨子の手首を、がしっとつかむ。
まさか鈴宮若子にまだ抵抗する力が残っているとは思っていなかったのだろう。林原雨子はぎくりと顔を強張らせた。
「クズ! 離しなさい!」
力任せに振りほどこうとする。
だが鈴宮若子は手首を死ぬほど強く握りしめ、爪を肉に食い込ませた。
そしてもう片方の手で、手の甲の点滴針を一気に引き抜く。
ぶちっ、と嫌な感触。
次の瞬間、血が勢いよく噴き出し、白いシーツに飛び散った。
あまりにも鮮やかな赤が、ぞっとするほど生々しい。
その勢いのまま、鈴宮若子は林原雨子へ飛びかかった。
二人はもつれるようにして、床へ激しく倒れ込む。
林原雨子の平手が、ばんっ、と鈴宮若子の頬を打った。
顔をはじかれ、口元から血がにじむ。
それでも鈴宮若子は手を放さない。
逆に林原雨子の腕へ、がぶりと噛みついた。
「痛っ……!」
悲鳴と同時に、注射器が手から落ちる。
鈴宮若子は床に転がったそれをつかみ取った。
林原雨子に馬乗りになり、両手で注射器を握り締める。
「死ね! この人殺し! 殺してやる!」
もう正気ではなかった。
鈴宮若子は針先の向きを返し、そのまま林原雨子の首へ突き立てようとする。
林原雨子は目を見開いた。
弱りきった病人が、ここまでの力を振り絞るなど思ってもいなかったのだ。
必死に注射器を押し返す。
けれど鈴宮若子は手術直後の体だ。健康な林原雨子と力比べになれば、長く持つはずがない。
少しずつ、少しずつ、腕から力が抜けていく。
その緩みを見逃さず、林原雨子は鈴宮若子を蹴り飛ばした。
鈴宮若子の体が床を滑る。
林原雨子は立ち上がった。髪も服も乱れきり、息を荒げながら鈴宮若子をにらみ据える。
「このクズ……死ぬ寸前まで逆らうなんて」
「そこまで言うなら、望みどおりにしてあげる」
「死ね!」
怨毒に満ちた目で叫ぶと、林原雨子は注射器を振り上げ、鈴宮若子の首めがけて思いきり突き下ろした。
鈴宮若子はとっさに手を伸ばし、その手首をつかんで食い止める。
だが手術を終えたばかりの体では、すぐに力が尽きる。
針先はじりじりと近づき、自分の皮膚まで、あとほんの数ミリ。
もう駄目だ――そう思った、その絶望の瞬間。
病室の扉が勢いよく開いた。
沈村政志が慌てた様子で駆け込んでくる。顔には隠しきれない焦りが浮かんでいた。
「やめろ!」
鈴宮若子の瞳に、ぱっと希望が灯る。
沈村政志――ようやく、林原雨子という最低の女の正体に気づいたのか。
