第2章

【青美の視点】

 一睡もできなかった。

 キッチンの窓から朝の光が差し込む中、私はフライパンの上のベーコンを裏返していた。背後から足音が近づき、義樹が私の腰に腕を回して、首筋にキスを落とす。

「おはよう。今週末、京都に行こうか。二人きりで。失われた時間を埋め合わせたいんだ」

 私は無理に笑顔を作った。

「完璧ね」

 完璧。その言葉が、鉛のように舌に重くのしかかる。彼はどうやってこんな真似ができるのだろう? 共同経営者に私のことをただの飾りだと言い放ち、私が失った子どものために泣いている裏で他の女と寝ていたくせに。どうして何事もなかったかのように、私にキスができるのだろうか。

 彼が朝食を終えて会社へ向かった後、私はスマートフォンを取り出し、早村に紹介してもらった私立探偵に連絡を入れた。義樹の身辺をすべて洗ってほしい、と。

 それからの数日間、私は完璧な妻を演じきった。キャンドルを灯したディナー、新宿御苑での散歩。まるで、すべてが以前と変わらないかのように。

 彼は私の手を握りながら仕事の話をし、心底楽しそうに笑っていた。私は微笑み返しつつも、心の中は完全に冷め切っている。

 あなたがどれほど嘘に長けているのか、ただそれだけを考えていた。

 三日目の午前中、再検査のために二人で病院へ向かった。

 ロビーに着いた途端、彼のスマートフォンが鳴った。画面を一瞥した彼の顔色が、わずかに変わる。

「ごめん。会社で緊急会議が入った。一人で診察に行けるか?」

「ええ、大丈夫よ。行って」

 足早に立ち去る彼の背中を見送ってから、私は一人で診察室に入った。

 医師が何かを説明している間、私はスマートフォンに探偵から送られてきたメッセージの数々を見つめていた。生々しいチャットのやり取り、写真、そして送金履歴。頭の中が真っ白になり、ただ機械的に画面をスクロールし続ける。

「青美さん? 青美さん、聞いていらっしゃいますか?」

 ハッと我に返り、医師に顔を向ける。

「すみません、今なんとおっしゃいましたか?」

 医師は微笑んだ。

「お身体は順調に回復していますよ、と申し上げました。ホルモン値も良好です。またいつか、お子さんを授かることもできますからね」

 その言葉に、私は息を呑んだ。

 また子どもを授かる?

 いいえ。もう二度とない。

 私は探偵に残金を振り込むと、立ち上がって医師に礼を言い、診察室を後にした。

 エレベーターに向かって歩き出した時——彼の声が聞こえた。角の先から漏れ聞こえる、低く焦燥した響き。

 私は足を止め、足音を殺して近づいた。

 廊下の突き当たりで、義樹が私に背を向けて立ち、スマートフォンを耳に押し当てていた。電話の向こうからは、女のすすり泣く声が漏れている。

「妊娠したの……責任、取ってよ……」

 彼は眉間を揉みながら、疲れた声で言った。

「堕ろしてくれ。金は払う。どこのクリニックでも、好きなところに行けばいい」

「でも、私たちの赤ちゃんなのに……」

「分かってるだろ、今は会社にとって重要な時期なんだ。スキャンダルが出たら、俺は終わりだ」

「じゃあ、私は邪魔なだけ? この子も邪魔なの?」

「俺は妻を愛してる。彼女が常に一番だ。永遠にな。ルールは分かってるはずだ、余計な考えは起こすな」

「でも、私を愛してるって言ったじゃない! 奥さんは退屈だ、私と一緒にいると生きている実感がするって」

「俺が愛しているのは妻だ。お前はただの遊びだよ、七海。勘違いするな」

「遊び? 私はあなたにすべてを捧げたのに。大学も辞めて、あなたが選んだマンションに引っ越して、あなたの望むことは何だってしたわ」

「そして、そのすべての対価を俺は払ってきた。自分だけが被害者みたいな顔をするな」

「産むわ。絶対に」

「いいや、産ませない。きちんと処理しろ。さもないと、すべてを失うことになるぞ。あのマンションも、今の仕事も、金も。何から何までな」

 私は壁にもたれかかり、冷たいタイルに手のひらを押し当てた。

 なんて皮肉なのだろう。愛人の前で、彼は妻を愛していると嘯いている。

 ようやく理解した。彼は誰のことも愛してなどいない。彼が愛しているのは自分自身だけ。自分の会社と、周到に築き上げた完璧な人生だけだ。

 私もあの娘も、この茶番劇を彩るための小道具に過ぎなかったのだ。

 私はきびすを返し、一人で病院を出て、タクシーを拾って帰路に就いた。

 車に揺られながら窓の外を見つめていると、目の前の街の景色がぼやけていく。

 七年。この街で七年間暮らしてきた。彼のためにすべてを投げ打って。

 私の仕事。私の夢。私の身体。

 なのに、彼が私にくれたのは何? 嘘。裏切り。そして他の女を宥めるための方便、『妻を愛している』という言葉。

 私はメールボックスを開いた。下書きフォルダには、二年前に恩師から送られてきたメールがまだ残っている。

『青美、アマゾンのプロジェクトにはいつでも君の席を用意してある。君に戻る準備さえできればね』

 返信は一度もしなかった。あの頃はまだ信じていたから。義樹を、私たちの結婚を、自分の選択が正しかったのだと信じていたからだ。

 今なら分かる。私は間違っていた。

 画面の上で指を滑らせる。

「浅野教授、お誘いをお受けいたします。三日後にはアマゾンへ到着する予定です。敬意を込めて 青美」

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