第1章
「カチャッ」
寝室のドアが鳴った。達彦が帰ってきたのだと、すぐにわかった。
胸が弾み、私は布団へ潜り込む。寝間着の紐をほどき、肌をすべらせた。
マットレスがふっと沈む気配。いつもの合図だ。私は毛布の中からするりと抜け出し、男の胸へ身体を絡め取る。
「ゲームの時間だよ!」
勢いよく顔を寄せ、唇に噛みつく。舌先でこじ開け、ぬるりと絡み合い、互いの熱と唾液を混ぜた。
「はぁ……達彦……」
息を弾ませ、私は彼の上に覆いかぶさる。指先が慣れた軌道で下へ滑っていく、その瞬間――
「おい、ハニー。ナースの注射ごっこはやめろって」
達彦はどこか困ったように私の腰を抱き、額に軽く口づけた。
三年間。達彦の父が遺した信託を解除し、40億の遺産を手にするには――北野の血を引く跡継ぎが、どうしても必要だった。
私たちは毎日、愛という名のゲームに溺れた。窓辺も、ソファも、リビングも、庭でさえ。そこにはいつだって、私たちの痕が残っている。
「愛してる、達彦~」
私は手のひらで彼の下半身を握り、太腿の内側へ押しつける。
「もういい、優香。疲れた」
達彦は乱暴に私を引き剥がし、寝返りを打って背を向けた。冷たい背中だけが、そこに残る。
おやすみのひと言すらない。静かな寝室に響くのは、彼の整った呼吸だけ。
――五日目。
この三年間、達彦は私の身体に、飽くことのない渇きみたいな熱を持っていた。
それなのに今は、触れようともしない。
私は自分に言い聞かせた。北野家の信託がもうすぐ期限を迎えるせいで、彼は精も根も尽きているのだ、と。
けれど――あの日から、すべてが崩れた。
私は滋養たっぷりの濃いスープを保温容器に入れて提げ、達彦のオフィスの前に立っていた。指先がドアへ触れようとした、そのとき。
隙間から、艶を含んだ、耳障りなほど甘い声が漏れてくる。
「ぁ……ダーリン、もっと強く……!」
「ぁぁ……」
小さな擦れる音に混じって、女の声が蜜みたいに絡みつく。
「玲美、もう五日も続けてるだろ。まだ俺の実力が分からないのか?」
達彦の声。からかうようで、私の知らない気怠さがあった。
「だってぇ……達彦……五日も……身体もたないよぉ……。あなたのこと、心配なんだもん……」
甘ったるい声に、甲高い叫びが混じる。
「はは。平気だよ、ベイビー。優香が家で濃いスープを煮て待ってる」
手が、空中で固まった。
玲美。達彦の養妹。
私の前ではおとなしく利口ぶって、いつも「お姉ちゃん」なんて甘えてくる、あの子。
「この前……薬を盛られて……そのときにあなたに会ったの、絶対、神様の導きだよ……」
玲美の息がさらに荒くなる。
「いまは……あなたのために跡継ぎを産んで、負担を減らしたいの……」
私は唇を噛みしめ、耳をドアへ押し当てた。中の音を、ひとつ残らず拾うために。
「――ッ!」
「バンッ!」
蹴り開けたドアが壁に当たって鳴る。手にした保温容器を床へ叩きつけた。
どろりとしたスープが散り、濃厚な香りが広がる――けれど、部屋に漂う獣じみた匂いは隠せない。
玲美は乱れた服のまま、達彦の肩にしなだれ、脚を大きく開いていた。頬は上気し、まだ足りないとでも言うような艶。
「あっ……神様……!」
悲鳴を上げ、怯えたふりで私の男の胸に隠れる。だが、その目の奥には、見落としようのない挑発が潜んでいた。
そして私の夫、北野達彦は。
机の紙箱からティッシュを引き抜き、下半身に残る液を雑に拭っただけ。目を泳がせながらも――罪悪感は欠片ほどもない。
「……何してるの?」
震える声が自分の耳に届く。音程が外れたみたいに、頼りない。
玲美はソファの隅へ縮こまり、両手で口元を覆って肩を震わせた。
「優香、ごめんなさい……わたし、ただ……あなたのために、達彦のために……」
「黙りなさい!」
私は駆け寄り、彼女の鼻先を指差した。
「優香!」
達彦が遮るように声を上げ、私の前へ出る。肩を強く掴み、無理やり視線を合わせてきた。青い瞳が、逃げ場を奪う。
「落ち着け。説明する。お前が思ってるのとは違う」
真剣そうな顔。私は揺らぎながらも、その先を待ってしまう。
「お前は俺の最愛だ。三年間、俺たちがどれだけ愛し合ってきたかが証明してる」
――でも。
声に抑えた苛立ちが混じる。
「三年だぞ、優香。腹が、まったく動かない」
「お前を傷つけたくなくて黙ってた。でも見られたなら話す」
達彦は机の引き出しから一枚の報告書を引きずり出し、私の手へ押し込んだ。
震える指で視線を落とす。患者名――優香。
診断結果――妊娠不能。
私は顔を上げ、泣き声みたいに叫んだ。
「嘘……! 私、今日だって医者の予約を――」
「もういい!」
達彦は両手で私の頬を挟み、強く言い切った。
「信託の期限まであと一年だ。北野の血を引く後継者がいなければ、俺たちは全部失う。路上生活だ。分かるか?」
「優香、俺はお前を愛してる。そんな生活をさせたくない」
そう言って、私の唇を乱暴に塞ぐ。舌を押し込む――かつて私が好きだったやり方で、私を黙らせようとして。
でも。
彼の身体には、玲美の香水がべったり残っていた。胃の奥がひくりと痙攣する。
私は彼の口角を噛み切り、突き飛ばした。涙が頬を滑る。
「だから……私が煮たスープを飲んで、養妹と『種付け』するの?」
「優香、そんな言い方しないでよ」
玲美が裸足で寄ってきて、達彦の腕に甘えるように絡みつく。
「達彦は毎晩、わたしの部屋にいても……いちばん親密なことをしてても、口にしてるのはあなたの名前なの。お兄ちゃんの苦しさ、少しは分かってあげて?」
二人が当たり前みたいに寄り添う姿。
楚々としているのに、勝ち誇った目。
私は、滑稽さに眩暈がした。
三年前。達彦は私を病院から連れ帰った。
事故で頭を打ち、記憶の大半を失った私を、彼が救ったのだと言った。温かな抱擁と、「家」をくれた。
私は彼だけに縋り、彼を世界のすべてだと思った。
三年間愛した男を見つめ、掠れた声で問う。
「達彦……そこまでしなきゃいけないの?」
「誰のためだと思ってる!」
達彦は声を荒げ、豪奢なオフィスを指差した。
「俺だって望んでない! あいつとやるたびに罪悪感で吐きそうだ! 頭の中はいつもお前だ!」
「優香、愛してる。これは永遠に変わらない」
懇願するように言う。
「あと一年だけ堪えろ。たった一年だ。子どもが生まれて金が入ったら、玲美は追い出す。俺たちは元通りだ。な?」
欲と汗の匂いを纏ったまま、達彦は私を抱き締めてくる。
視線が落ちた先、閉められていないファスナー。そこに突き立つ醜い昂ぶりが、針みたいに心を刺した。
「達彦……気持ち悪い」
私は彼の目を睨み、顔を背けて、唇を近づけさせない。
その瞬間、達彦の顔色が沈んだ。
「忘れるな。お前は自分の過去すら知らない。クレジットカードの主契約は俺だ。家も生活も――命だって俺が与えた」
声が冷たく刃になる。
「俺を離れたら、今夜寝る場所の金すらない。気持ち悪い? よく言えるな」
彼は私を突き放し、待ち構えていた玲美を抱き寄せる。
「涙もわがままも引っ込めろ。全部、お前を愛してるからだ」
