第2章

 彼の、正論ぶったくせに妙に情に訴える言葉を聞いているうちに、私は顔を覆ったまま、振り返りもせず家へ駆け戻った。酒棚から、いちばん嫌いなウォッカを引きずり出し、ボトルごと喉へ流し込む。

「達彦……嘘つき。三千本の薔薇の中で、私だけを摘むって言ったくせに。棘を全部抜いて、あなたに寄り添ったのに……三年で全部、泡……」

 その夜、達彦は自分の寝間着を二着だけ取り出した。次いで私の顎を持ち上げ、慣れたキスで唇を塞ぐ。柔らかな舌先が唇をくすぐる――けれど、彼の肌に染みついた他の女の匂いが鼻を刺し、私は口を開けられなかった。

「優香、強くなれ。嫉妬なんて捨てろ。少し我慢すればいい」

 それから、申し訳なさそうな目を作って言う。

「玲美はいま妊娠のためにプレッシャーが大きい。近くで落ち着かせてやる必要がある。今夜から隣の客室で寝る」

 私はドレッサーの前に座り、鏡越しに彼の「当然だろ」という顔を見た。

「落ち着かせる?」

「昨日の深夜、ソファで立ててた音……治療には聞こえなかったけど」

 達彦が私の手首を掴む。指が食い込み、痛い。

「優香。昨日、オフィスで決めただろ」

 彼は私の前に半膝をついた。頬に、まだ拭き切れていない口紅の跡。胃がきりきりと捻れる。

「三年だ。お前の腹は何も産めない。北野家の血を引く後継者がいなければ――いまお前が使ってる上限なしのブラックカードも、下のガレージのスポーツカーも、毎月の専門医の費用も、全部消える」

 困ったふりで顔を寄せる。

「俺が好きで毎晩あいつと寝てると思うか? お前のためだ。お前の愛はそんなに自分勝手で狭いのか?」

 青い目を見返す。自分を、家のために身体を差し出す聖人だとでも思っているらしい。

「……分かった」

 喉から出た声は、砂みたいに乾いていた。

「じゃあ、存分に落ち着かせてあげて」

 達彦は満足そうに笑い、私の額に温度のないキスを落として出ていった。扉が閉まった瞬間、私はベッドへ身体を投げ出す。枕の下には、前に破いたストッキングが残っていた。

 十分後。壁一枚向こうの客室から、はっきりと声が聞こえる。

「ぁ……達彦……もっと奥……」

 玲美は、抑える気すらない。

「うん、ハニー、上手い……」

「玲美、今日はもっといい体位にしよう」

 ――それは、かつて私だけのものだった狂熱。

 私は耳を塞ぎ、クローゼットの奥からナース服、ポリス服、鞭、手錠……全部を床へ放り投げた。私たちが遊んだ道具。なのに、今夜の相手は私じゃない。

 右手の親指と人差し指の間を噛む。刺す痛みで、身体の勝手な反応と、胸に広がる吐き気を押し殺した。

 翌朝。目の下に濃い隈を作ったままリビングへ行くと、玲美は極端に短いシルクのネグリジェで、骨がないみたいに達彦の胸に凭れていた。私の位置からは、二人の下半身がまだ繋がったままなのがはっきり見える。

 達彦は燕の巣の入った椀を持ち上げ、自分の口へ含み、それを丁寧に口づけで彼女へ移した。

 私の足音に気づき、玲美は慌てて達彦の膝から降りる。離れ際、達彦の醜いものが露わになったまま。

 玲美は怯えた顔を作った。

「ごめんね、お姉ちゃん。私たち、うるさかった? 不安が強くて……達彦がずっとそばにいて、慰めてくれて……」

 「慰め」という単語だけを、妙に重く噛む。

 達彦は眉をひそめ、冷たく私を見る。

「優香、朝からネガティブな空気を妊活中の玲美に持ち込むな」

 私はアイランドカウンターへ行き、氷水を注ぐ。

「ベッドが揺れるほどの慰め声を抑えてくれたら、顔色も少しは良くなるわ」

 グラスを重く置き、彼の下半身へ嘲る視線を投げた。

「優香!」

 達彦の顔が陰る。

「最後に言う。くだらない嫉妬はしまえ」

「やだ、達彦、優香を叱らないで」

 玲美が腕にしがみついて泣き真似をする。

「全部私のせい……私が睡眠の邪魔した。いっそ出ていく……夫婦喧嘩の原因になりたくない……」

 達彦はあっさり崩れ、抱き返し、涙を口づけで拾った。

「馬鹿なこと言うな。お前は跡継ぎを産むんだ。家族のために貢献してる」

 そう言って、私を見下ろす。

「玲美のふくらはぎが痙攣してる。風呂場で熱い湯を張って持ってこい」

 私はグラスを握った手のまま固まった。

「……何て?」

「湯を持ってこい。45度。ラベンダーオイルを二滴」

 達彦は近づき、二人だけに届く声で脅す。

「優香、大人になれ。あの腹は一族の未来だ。感謝して、脚を温めてやれ。カードを止められたくなければな」

 金で首を締め、浮気相手の足湯を運ばせる。

 彼は、私の尊厳をどう踏み潰せば一番痛いかを知り尽くしていた。

 指先が震える。私は一階の浴室へ向かった。湯気の立つ洗面器を抱えて戻り、「ドン」とソファ前のラグに置く。

「優香、ごめんね。助かる……」

 口では謝りながら、白い足が遠慮なく洗面器の上へ伸びる。

「洗ってやれ」

 達彦が私を見た。

 私は膝をつき、玲美の足を湯に沈め、ふくらはぎを揉む。

「あ~、優香、強すぎ……!」

 玲美が大げさに蹴り、私は床へ倒れた。達彦は怒鳴りながら湯を私へぶちまける。

「役立たずが! それくらいもできないのか!」

「力なんか入れてない……!」

 か細い反論は無視され、彼は私の髪を掴んだ。

「達彦、彼女のせいじゃないの。私の肌が弱いだけ」

 玲美が甘えるように言う。

「ねえ、台所でレモン切って?」

 達彦はすぐ手を離し、優しく言った。

「座ってろ。すぐ戻る」

 男の背中がキッチンの角へ消えた途端、玲美の顔から可憐さが消えた。ソファにふんぞり返り、眉を吊り上げる。

「現実を見なよ、優香」

 低く、毒のある声。

「三年経っても卵も産めない雌鶏。ほんと役立たず。達彦があなたを愛してる? ベッドで一番言ってたよ。『優香は豚肉みたいにだるだるで入れる気にもならない。狂わせるのはお前だけだ』って」

 私は無表情で返す。

「男の子を産めるといいわね。じゃないと小切手一枚で消える資格すらない」

 玲美は鼻で笑い、昨夜の客室を指した。

「部屋、片づけて。床のティッシュと使ったシーツは黒いゴミ袋に入れてね。無駄なプライド、拾い集めたくなるでしょ?」

「行かなかったら?」

「達彦に言う。さっき彼がいない間に私を突き飛ばしたって」

 笑っているのに、目は悪意で濡れている。

 私は言い返さず、客室へ向かった。

 屈したわけじゃない。

 いまの達彦の底がどこにあるか、私は知っている。玲美が痛いと言えば、彼はどんな狂気でも平気でやる。

 客室のドアを押し開ける。

 空気は、かつて私のものだった達彦の匂い――そこに濃い生臭さが混ざり、吐き気がした。乱れたベッド、汚れたソファ。床には、達彦が私から奪った黒いレースと、乳白色の液が染みた紙の塊。

 息を止め、耐えながら拾う。

 丸められたスーツワンピを掴んだとき、ポケットから何かが滑り落ちた。

 玲美の予備スマホ。

 拾い上げ、指が画面に触れた瞬間、ぱっと点灯する。受信したばかりのメッセージ。

『もうすぐだ。ボロを出すな』

 ……もうすぐ?

 信託のためだけなら、こんな警戒の文面になる?

 隠された番号を睨む。鼓動が速くなる。

 玲美の背後には、誰かがいる。

 私は半開きのドア越しにリビングを見る。

 達彦は切ったライムを運び、玲美に媚びるように笑っていた。

 ――不思議と、もう悲しくなかった。

「達彦の馬鹿が、これを知ったら……どんな顔するんだろ」

前のチャプター
次のチャプター