第3章
一か月後。
北野家の信託・中間審査晩餐会。
達彦は、玲美が着なかったピンクのイブニングドレスを私に無理やり着せた。狙いはひとつ――誰の目にも「盤石な夫婦」に見せること。
私は二階の螺旋階段、白い大理石の手すりにもたれ、階下で客と談笑する達彦を冷めた目で見下ろしていた。
玲美のスマホに残っていた、あの短信を掴んでから。達彦はますますあいつに溺れ、ますます盲目的に信じ込んだ。だから私は、水面下で準備を進めるしかなかった。
「ねえ、今夜の彼、ほんとに風格あるよね」
玲美が、脱脂ミルクのグラスを手に近づいてくる。私の目の前に立ち、まだ膨らみもしない腹をわざと強調するように胸を張った。
「あと数か月で、達彦の全部は私のもの」
耳元へ唇を寄せ、甘く笑って囁く。
「あなたは路上に放り出されて、身体を売って稼ぐしかなくなるの。惨めな売女としてね」
私は首だけを回し、なぜか笑みが浮かんだ。左手の指先で、腰のベルトに隠しておいた小型デバイスをそっと起動する。
「あなたのあの短信、誰から?」
声は穏やかなまま、刃だけを混ぜた。
「達彦に何を飲ませてるの? それに――この一か月、探って分かった。お腹の子、妊娠一か月じゃない。どこで拾ったの? 借り物の子?」
玲美の顔が、ぴしりと固まる。瞳に一瞬、怯えが走り、反射的に腹へ手が伸びた。けれど次の瞬間、表情がぐっと凶悪に染まる。
「分かったふりしないで」
一歩、詰めてくる。唇を歪め、私の呼吸を奪う距離で吐き捨てた。
「過去もない、記憶喪失の役立たずが何言っても、誰が信じるの? 達彦ってば、目が節穴なんだよ。いま見てるのは私の腹だけ!」
そのとき、玲美の視線がふっと階下へ滑った。
会話を終えた達彦が、こちらへ向かって歩いてくる。
玲美は突然、手にしていたミルクのグラスを落とした。パリン、と乾いた音。
そして私の右手首を、爪が食い込むほど強く掴む。
「……何をする気?」
眉をひそめ、振りほどこうとした瞬間――玲美が笑った。
「何をするか、って? あなた、私の計画を邪魔したでしょ」
声は低く、粘つく。
「だから――先に地獄へ送ってあげる」
次の瞬間、玲美は自分から大きく仰け反り――
「きゃあ! 優香、押さないで!」
玲美の身体が白い大理石の階段を、つるりと滑って転げ落ちていく。
「ドン! ドン!」
悲鳴が、会場の音楽を真っ二つに裂いた。
数百の視線――東京の上澄みが、一斉に階段へ向く。
「玲美!」
達彦が狂ったように人垣を割り、倒れた玲美を抱き起こした。
彼女の太腿の内側に広がる、目に刺さるほどの鮮紅。
玲美は達彦のジャケットの襟を掴み、今にも途切れそうな声で縋る。
「達彦……子どもを……助けて……」
そして、わざとらしく息を震わせる。
「優香を……責めないで……」
私は階段の上で、指先が氷みたいに冷えていくのを感じながら、その茶番を見下ろしていた。
達彦が顔を上げ、私を睨みつける。
玲美を駆け寄った護衛へ渡すと、二段飛ばしで階段を駆け上がり、私の目の前に躍り出た。
「パンッ!」
乾いた音。
頬に焼けるような痛みが走り、口の中に鉄の味が広がった。階下の客たちは、面白がるような目でこちらを見ている。
「この売女!」
達彦は指を突きつけ、怒鳴り散らす。
「玲美の腹は、北野家の唯一の希望だ! お前は産めないくせに、さらに邪魔までする気か!」
「優香……愛のために、少しは我慢できないのか。くだらない小さな嫉妬を!」
私は口角の血を指で拭い、真っすぐに彼の目を見た。握りしめた拳が、服の内側で小さく震える。
「私が押してないって言ったら、信じる?」
「下に何百の目があると思ってる!」
彼は証拠を出す隙すら与えず、ぐいっと振り返って階下へ吠えた。
「救急車は! 今すぐだ! 東京で一番の医者を呼べ!」
「達彦……痛い……こわい……」
玲美が護衛の腕に縋り、か細い声で泣き真似をする。
「そばにいて……いま、安心できないの……」
その「安心」という言葉に、達彦の視線が私の首元へ落ちた。
青いサファイアのネックレス。
北野家の女主人の証。三年前、彼が求婚した夜、私の首へ自分の手でかけたもの。
「それは、彼女にふさわしくない」
達彦の声は、凍っていた。
次の瞬間、彼は一歩で間合いを詰め、私のネックレスを鷲掴みにする。
「達彦、やめて!」
私は身を引く。だが、彼は離さない。
ぐっと引きちぎった。粗い金属が皮膚を裂き、首筋に深い熱が走る。私は引き倒され、膝から床へ落ちた。
達彦は、私の血に濡れたネックレスを握りしめたまま――フラッシュが焚かれる中、玲美の手のひらへ押し込む。
「持ってろ。もう怯えなくていい」
達彦は一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに玲美の額へ口づけた。
「今日から、お前が北野家の女主人だ」
彼は玲美を横抱きにして立ち上がり、階段の上でうずくまる私を見下ろす。
「夫人を部屋へ戻せ。反省させろ」
そして護衛に、最も冷酷な命令を落とした。
「跡継ぎが無事に生まれるまで、屋敷の中で『守れ』。夫人を」
私は、まるで死骸みたいに護衛に支えられて連れていかれた。
反省など建前だ。地下室へ閉じ込めるつもりなのは分かっている。
背後から、嘲笑が遠慮なく降り注ぐ。
「哀れだな。卵を産めない鶏に施しはないってか」
「貧乏な孤児が、達彦様に釣り合うわけないだろ」
俯いたまま歩いた、その瞬間。
頭を割るような痛みと一緒に、いくつかの映像が蘇った。
ヨーロッパの古城。
胸には純金の族徽。背後には幾十の護衛。
夜会の灯りの下、数え切れないほどの男たちが私に手を差し伸べ、誰かは跪いて――爪先に口づけしようとする。
「カチャン」
地下室の電子ロックが三重に噛み合い、闇が落ちた。
私は膝をつき、腰のベルト飾りから小型装置を外す。
記憶が示した番号へ、迷いなく短信を送った。
口角が、わずかに上がる。
北野達彦。
祈っておいたほうがいい。
私を本気で馬鹿だと思っていたのなら――私が外へ出たとき、特大の「驚き」をくれてやる。
