第4章

 地下室の鉄扉が、誰かの蹴りで「ガンッ!」と破られた。

 ベルトに仕込んだ小型装置が、ぶるりと震える。

 私は口の端を吊り上げ、手錠で擦れて赤くなった手首を持ち上げたまま、目の前の男を見た。ここに丸一日。男は私に水一滴、食べ物ひとかけらすら与えなかった。

 達彦が数歩で間合いを詰め、私の髪を鷲づかみにして、冷たく湿ったコンクリの床から無理やり引きずり起こす。

「バンッ!」

 血の跡がついた透明の袋を、私の顔面へ叩きつけた。

「地獄から這い出た悪鬼よりもタチの悪い毒女が! 見ろ、てめぇがやったことを!」

 達彦の目は真っ赤で、獣みたいに理性が飛んでいる。歯は「ギリギリ」と鳴り、唾が私の頬に飛んだ。

「看護師に5万ドル渡して、玲美の点滴に堕胎薬を混ぜさせたんだろ! 俺の、唯一の後継ぎが……お前のせいで血の塊になった!」

 荒い息のまま、私は袋の中を見た。妊娠検査の紙と、空になった薬瓶。

 ――笑える。

 階段から転げ落ちた程度で、あの女が流産するはずがない。あの転がり方じゃ、そうはならない。腹の子が達彦の種じゃないことを、自分が一番よく分かっていたからだ。私に見抜かれるのが怖くて、追い詰められて――病院で「流産した可哀想な私」という芝居を打った。

 バレる爆弾を一つ消し、ついでに殺人犯の烙印を私に押しつける。完璧な筋書き。

 私が口元をわずかに歪めた、その瞬間。

「……何を笑ってやがる!?」

 達彦の怒りが爆発した。喉元に手が食い込み、私はカビの斑点だらけの壁へ「ドンッ!」と押しつけられる。

「お前は俺の子どもを潰した! 北野の40億の信託まで潰したんだぞ! 優香……俺が、お前に手を出せないとでも思ってるのか?」

「……馬鹿……」

 締め上げられた喉から、かろうじて言葉を絞り出す。

「騙されてるのは……あんた……。私はここに閉じ込められて……見張られてた……どうやって看護師を買収して……薬を混ぜるの……」

 達彦の指が、さらに強く食い込む。

「それに……あの子が……あんたの種かどうか……あんた自身が……分かってない……」

 そのとき、達彦のスマホが鳴った。受話口から、医者らしい男の焦った声が漏れる。

「先生、準備は整いました。あとは血液パックだけで――」

「黙れ!」

 達彦は通話を切り、私を乱暴に放り投げた。背中が床に打ちつけられ、肺の空気が一気に抜ける。

 彼は階段口にいる、白衣の見知らぬ男へ顔を向けた。

「始めろ」

 氷みたいに冷たい命令。

 男がケースを提げて降りてくると、屈強な護衛が二人、左右から私の腕を掴んだ。まるで肉の塊みたいに引きずられ、錆びだらけの鉄のベッドへ押しつけられる。

「カチャン、カチャン」

 荒い拘束具が、手首と足首と腰を無慈悲に締め上げた。

「放しなさい! 達彦、私を迎えに来る人がもうすぐ――」

 叫んで暴れる。だが拘束はびくともしない。

 黒市の医者は金属ケースを開け、いちばん太い探針を取り出した。さらに透明な太いチューブを繋ぐ。

 達彦が手術台の横へ立ち、見下ろすように言った。

「玲美は失血がひどい。しかも特殊な血だ」

 その目が、私の腕へ落ちる。

「お前の血が、都合よく一致してる。医者が言った。お前の血を半分抜けば、玲美は助かる」

 そして、鼻で笑う。

「それに、お前の命は俺が拾った。底辺の孤児に、誰が助けに来る?」

 心臓が、ぎゅっと縮んだ。

 免許も怪しい屠殺人みたいな男に、ここで血を抜かせる気だ。愛人を生かすために。

「……あの女が腹を守れなかったのは自業自得よ」

 私は達彦を睨みつける。

「その婊子の延命のために、私を生きたまま搾り取るつもり? 達彦……外に出たら、あんたを跪かせる」

 達彦は表情ひとつ変えない。

「俺の子を殺した時点で、お前はただの移動式血液タンクだ」

 短く息を吐き、続ける。

「それに――今日、お前はこの門を出られない」

 彼は医者へ視線を向け、最後の命令を落とした。

「薬は一切いらねぇ。直で抜け。玲美が子どもを失った時、どれだけ痛かったか――こいつにも、はっきり味わわせろ」

 黒市の医者が一瞬固まり、「ひっ」と息を呑む。

「北野先生、麻酔なしだと……この方、弱ってますし……死ぬかもしれません」

「俺の日本語が分からないのか?」

 達彦が怒鳴る。

「始めろ!」

 医者はアルコール綿で、私の腕を無表情に二度拭いた。

「……失礼します」

 次の瞬間。

 太い鋼の針が、容赦なく皮膚を貫いた。

「――ああああっ!!」

 自分でも止められない悲鳴が、地下室に弾けた。達彦は知っている。私は針が怖い。恐怖が痛みを何倍にも膨らませることを。だから、これが復讐なのだ。

 私は鉄ベッドの縁を指が白くなるまで掴み、汗と涙が混ざって「ぽた、ぽた」と落ちる。護衛が二人、痛みにのたうつく私の腕と脚を押さえつけた。

 透明なチューブの中を、濃い赤が勢いよく流れていく。私の中から、奪われていく。

 その地獄の最中、かすかに――上階の音が聞こえた。

「丁寧に。毛布の温度は37.5度に」

 東京私立病院の一流の専門医の声。

「達彦先生のご指示です。玲美様は極めてご体調が優れません。最高級の補養品を空輸で。奥様は最も尊い方です、粗相のないように」

 上では、何千万もかけた贅沢な手当て。

 地下では、私への処刑。

 私は歯を食いしばり、舌先は噛み切れて血の味が広がった。それでも顔を横に向け、少し離れた場所に立つ達彦を睨む。

 達彦は俯き、苛立ったように舌打ちする。

「早く抜け! 玲美が上で待ってんだ。俺の時間を無駄にするな!」

 血の流れが、さらに速くなる。

 体温が奪われ、指先が冷え、息が薄くなる。視界の端が、じわじわと黒に浸されていく。

 それでも私は、かすれる声で誓った。

「達彦……浅村優香に今日与えた辱め……必ず、百倍で返す……」

 安物の心拍モニターが「ピッ、ピッ」と鳴り、やがて甲高い警報へ変わった。

「先生! 抜きすぎです、これ以上は――!」

 黒市の医者の手が震えている。

 私の視界は、完全な闇に呑まれた。

 最後に見えたのは、達彦の横顔。そこには、感情の欠片もなかった。

 そして――心臓が、止まった。

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