第2章

午前七時、バスルーム。そこはまるで戦場跡のように、化粧品が散乱していた。

鏡の前に立つと、そこには自分でも見知らぬ他人が映し出されていた。昨夜までの黒髪は柔らかな栗色のウェーブへと姿を変え、全身のタトゥーは長袖のワンピースの下に完全に隠されている。薄く施したメイクのおかげで、どこからどう見ても「育ちの良い女子大生」の出来上がりだ。

「まるで仮面を被っているみたい」

思わず、鏡の中の頬に手を伸ばした。

その時、思考を遮るように電話が鳴った。

「準備はいい?」

夏海の声は妙に弾んでいた。

「たぶん」

私は鏡の中の他人を見つめたまま答えた。

「演技をするのよ、真希。いい? あんたは帝都芸術大学の『白石礼音』。家柄は地味で、性格は内気。芸術を愛しているけど、自信がない女の子」

「もし失敗したら?」

私の声がわずかに震えた。

「失敗なんてありえないわ」

彼女の声色が真剣なものに変わる。

「500万円よ。その数字を忘れないで」

そう、金だ。これはすべて金のための仕事なのだ。

電話を切った後、私は最後にもう一度鏡を見た。そこに映る少女はとても無害で、そして……酷く嘘くさかった。だが、それこそが今の私に必要なものだった。

P市の芸術地区にあるブティック・カフェは、午前十時だというのに満席だった。インダストリアルな内装、地元のアーティストの作品が飾られた煉瓦造りの壁。空気はコーヒーの香りと、クリエイティブな熱気で満ちている。

私は隅の席を選び、スケッチブックを広げて絵を描くふりをしながら、実際には入り口を監視していた。掌が少し汗ばみ、心臓の鼓動が早くなる。

「落ち着け、真希。あんたはただコーヒーを飲みに来た普通の女の子だ」

十時十五分、彼が現れた。

近藤健太――本人は写真よりも魅力的だった。陽光を受けて輝く金髪、海水のように澄んだ青い瞳、背が高く引き締まった体躯。二人の友人を連れて入ってきた彼は、眩しいほどの笑顔を振りまいている。まさに絵に描いたような理想的な男性だ。

「今夜の屋上パーティー、絶対に来いよ!絵里の話じゃ、モデルの子が大勢来るらしいぜ」

友人の一人が言った。

「もちろん。いいパーティーを見逃すわけないだろ」

健太は口元を緩め、カウンターの列に並んだ。

「今だ」

私は深呼吸をし、画材をまとめると席を立った。タイミングを完璧に計り、スケッチブックの束と絵の具箱を抱え、彼に「偶然」ぶつかりに行く。

衝突は完璧だった。絵の具のチューブが床を転がり、スケッチ画が派手に散らばる。

「あっ、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

私はすぐにしゃがみ込み、意識的に頬を紅潮させながら片付け始めた。

「大丈夫だよ、手伝うよ――」

彼も屈み込み、そして手を止めた。

「わあ、すごい絵だね」

彼は私が昨夜描いたP市の夜景のスケッチを拾い上げ、その瞳に純粋な驚きを浮かべていた。

「ありがとう……」

私は恥ずかしそうにうつむく。

「私なんて、ただの学生ですから……」

「学生? 学生のレベルじゃないよ」

彼は絵を持ったまま立ち上がった。

「俺は健太。君は?」

「ま……礼音です」

危うく偽名を間違えるところだった。

「ぶつかってごめんなさい。私、いつもドジで……」

「謝らないで」

彼は微笑み、手を差し出した。

「お詫びにコーヒーを奢らせてよ。本来なら、謝るべきは俺の方だしね」

「あなたは何も悪くないわ」

「君の進路を塞いじゃったから」

彼はウィンクしてみせた。

「それに、君のアートについてもっと知りたいんだ」

二十分後、私たちは隅の小さなテーブルに向かい合って座っていた。私はキャラメルマキアート、彼はブラックコーヒー。彼の友人たちは、今夜のパーティーの準備があると言って先に帰っていた。

「君は色彩というものを深く理解しているね」

健太は真剣な表情でスケッチブックをめくっている。

「大学での専攻は?」

「油絵です……。技術よりも、内面の感情を表現する方が好きで」

これは完全な嘘ではなかった。私は確かにアートを愛している。ただ、私のキャンバスが人の肌だというだけだ。

「それは珍しいな」

彼は顔を上げ、予想外に真剣な眼差しを私に向けた。

「最近じゃ多くの人が表面的なことばかり気にして、芸術の本質を忘れてしまっているからね」

こいつ、意外と分かってる?

私は少し驚いた。夏海の資料には、彼がただの遊び人としか書かれていなかったからだ。

「健太さんも、絵を描くんですか?」と私は尋ねた。

「俺は集める専門だよ」

彼の表情が少し複雑なものになった。

「親父はアートなんて時間の無駄だと思ってる。でも俺は……美しいものは守られるべきだと思うんだ」

一瞬、彼の瞳に孤独の色が見えた。それは演技なんかじゃない、本物の感情だった。

「今夜パーティーがあるんだ。アーティストも大勢来るし、よかったら君も――」

彼は私を誘おうとした。

「私……」

私はわざとらしく内気なふりをした。

「パーティーとか、そういう華やかな場所は苦手なんです。うるさいのはちょっと……静かな場所の方が好きで」

彼は言葉を切り、何かを思案するように私を見つめた。

「じゃあ……作品を見せてもらえませんか?」

私はおずおずと切り出した。

「コレクションがあるなら」

彼の瞳が、ぱっと輝いた。

「俺のコレクションを見たいの? もちろん! 家はすぐ近くだし、面白いのがたくさんあるよ」

心の中でガッツポーズをしつつ、表面上ははにかんだ笑顔を崩さない。

「本当に?」

「ああ、絶対」

彼はもう立ち上がっていた。

「パーティーなんかよりずっと面白いさ」

カフェを出ると、P市の秋の日差しが通りに降り注いでいた。彼は私の隣を歩きながら、興奮気味にコレクションの話を続けた。

「地元の画家の作品が何点かと、ヴィンテージのポスターもあってね……」

私は相槌を打ちながらも、頭の中では次の手を計算していた。任務は予想以上に順調だ。だが、彼の反応に思いがけず心を動かされている自分がいた。彼はただの浅はかな金持ちのボンボンじゃない――少なくとも芸術に関しては、純粋な情熱を持っている。

その時、彼の携帯が鳴った。

「貴志兄さん? どうしたの?」

電話に出た途端、彼の声色が畏まったものに変わる。

「今夜? でも俺は……」

彼は私をちらりと見て、躊躇う素振りを見せた。

「うん、大事な客だってことは分かってる。分かった、戻るよ」

通話を終えると、彼は申し訳なさそうな顔をした。

「ごめん、兄貴が今夜大事な客と会うから、家にいなきゃいけないんだって」

兄貴。弁護士の近藤貴志。私は脳内で素早く夏海の資料を検索したが、貴志に関する情報はほとんどなかった。

「大丈夫です」

私は声を震わせないように努めた。

「家族の方が大切ですから」

「物分かりがいいんだな」

彼は笑ったが、その目は笑っていなかった。

「大抵の女の子は、デートをドタキャンしたら怒るのに」

デート? 彼はこれをデートだと思っていたのか?

「これって、デートなんですか?」

私は赤面した。だが今回は演技ではなかった。

「君にとっては違うの?」

彼は足を止め、真剣な眼差しで私を見た。

その問いに虚を突かれた。計画では、これはターゲットに近づくための第一歩に過ぎないはずだった。なのに……。

「私……」

「冗談だよ」

彼はにっと笑い、気まずい空気を和らげた。

「でも、コレクションは本当に見てほしいんだ。明日はどう?」

「明日?」

「もし暇なら」

彼の声には自信なさげな響きがあった。断られるのを恐れているようだ。

「いいですよ」

「やった!」

彼の笑顔が再び輝きを取り戻す。

「絶対気に入ると思うよ」

私たちは街角で別れた。彼は住宅街の方へ、私は反対方向へ。彼の姿が見えなくなったのを確認してから、私は携帯を取り出した。

「夏海、話がある」

「どうしたの? 任務は順調じゃないの?」

「健太に貴志っていう弁護士の兄がいるなんて、詳しく聞いてないわよ」

向こう側で数秒の沈黙が流れた。

「彼はいつも仕事で忙しくて、健太の生活には関わってこないのよ。計算に入れる必要はないと思ったんだけど」

彼女の声には、どうでもいいといった響きがあった。

「気にせず進めなさい」

「気にするな、だって?」

私は声を潜めた。

「兄がいるなら、彼と二人きりになるのは無理よ。それに相手は弁護士……この芝居なんてすぐに見抜かれるかもしれない」

「真希、落ち着きなさい。計画に変更はないわ。あんたはターゲットへの接触に成功した。一番難しい部分はクリアしたのよ」

言い返そうとしたが、電話はすでに切れていた。

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