第001章
今日は菅田友香の誕生日だった。
夫の藤原行船はミシュラン三つ星のレストランを予約していたのに、勝手に彼女の継妹――菅田有紀まで呼んだ。
「家族で集まったほうが、にぎやかだろ」
そんな耳ざわりのいい理由をつけて。
ところが菅田有紀は玄関を入るなり、藤原行船の袖口をきゅっと掴み、甘えた声で囁いた。
「お姉ちゃんの手料理、すっごく懐かしいなぁ……」
その一言で、藤原行船は迷いなく予約をキャンセルし、家で祝うことに切り替えた。
……胸の奥が、すうっと冷える。
まただ。
有紀が帰国してから、こんなことがいったい何度あっただろう。彼女はいつも絶妙なタイミングで入り込み、友香と行船の生活の輪郭を、当たり前みたいに塗り替えていく。
そして行船は、有紀の言うことなら何でも聞く。
知らない人が見たら、有紀のほうが妻だと思うに違いない。
今日だってそうだ。誕生日の主役は、まるで友香ではなく有紀だった。
夫と息子はリビングで有紀を囲み、楽しげに笑い合っている。
その一方で友香は、主役であるはずなのに一日中キッチンに立ちっぱなしだった。
友香は手元の薬膳スープの碗を見下ろし、口元だけで自嘲する。
これは行船が何度も念を押してきた、有紀の体を養うための薬膳スープ。
もともと夫と息子の体調を整えるために、友香は一年以上も中医学の食養生を学び、毎朝早くから夜遅くまで煮込み続けてきた。
それなのに――有紀が海外で大病を患い、帰国して療養すると知った途端、行船は言ったのだ。
これからは毎日、有紀の分も一杯ずつ作れ、と。
しかも、それを『その人を愛せば、屋根のカラスまで愛おしくなるものだ』と言った。
今思えば、笑えるほど皮肉だ。
彼はもう、妻である友香より有紀に気を配り、心を砕いているのだから。
友香は薬膳スープの碗を捧げ持つようにして、キッチンを出た。
ずっとこの家の奥様みたいにダイニングテーブルに座り、行船と息子と談笑していた有紀は、友香が出てきたのを見ると、ようやく立ち上がる。
「お姉ちゃん、熱いから気をつけて。手伝うね」
「結構。あとで火傷して転んだら、また私のせいにされるでしょ」
そう言って身をかわそうとしたが、薬膳スープの碗を抱えているぶん動きが遅れた。
有紀の指先が器に触れかけた、その瞬間――まるで感電したみたいに手を引っ込め、悲鳴を上げて後ろによろめいた。
菅田友香、ほんっとにバカ。ちょうどいいところで引っかかった。あとは行船お兄ちゃんに嫌われるだけ。
目の前で起きた芝居を見ながら、友香はこめかみがずきりと痛んだ。
ほら、やっぱり。
けれど幸い、今回は警戒していた。有紀が近づいた時点で薬膳スープの碗をぎゅっと掴み直していたから、熱い汁がこぼれずに済んだ。
胸を撫で下ろした、その次の瞬間。
見慣れた影が横から疾風のように駆け抜け、よろめく有紀を抱きとめた。
藤原行船だ。声には、友香が一度も聞いたことのない焦りが滲んでいた。
「有紀! 大丈夫か?」
有紀は真っ青な顔で、その場で目を潤ませる。
「わ、私……平気……」
平気と言いながら、両手はわざと背中に隠す。
行船は問答無用でその手を掴み、掌にのせて何度も確かめた。
そしてようやく息を吐く。
「よかった……ひどくはない」
五歳の藤原翔太も玩具を放り出して駆け寄り、頬をぷうっと膨らませて有紀の手にふうふうと息を吹きかけた。
「おばちゃん、いたくない。翔太、ふーふー」
有紀は泣き笑いになり、まつ毛に涙を一粒だけ残したまま――見ているだけで庇いたくなるほどだった。
彼女は行船を見上げ、恐る恐る頼む。
「行船兄さん、お姉ちゃんを責めないで……ほんとに、わざとじゃないの」
そこでようやく、行船の視線が、完全に無視されていた妻へ向いた。
しかしその目に温度はない。声も氷のように冷たい。
「友香、謝れ」
翔太もすぐに小さな顔を上げ、甘えた声で追い打ちをかけた。
「ママ、おばちゃんにあついのしちゃった。はやく、ごめんなさいして」
……まただ。
有紀が絡むたび、悪者はいつだって友香。
料理が口に合わないと謝るのも友香。
薬膳スープが数分遅れたと謝るのも友香。
その瞬間、友香は熱さすら感じなくなっていた。ただ、薬膳スープの碗をぎりぎりと握りしめる。
有紀の瞳に勝ち誇った光が一瞬よぎる。しかし口にするのは、さらに聞き分けのいい言葉だった。
「行船兄さん、もういいよ……お姉ちゃんを困らせないで」
行船は眉を寄せる。
「友香、おまえ――」
言い終える前に、友香は「どん」と薬膳スープの碗をテーブルへ置いた。
顔を上げ、夫を真っ直ぐ見据える。瞳には失望が浮かぶ。
「ずっとこれを持ってたのは私よ。火傷するなら、私じゃないの?」
行船が言葉を失い、無意識に友香の手へ視線を滑らせる。
「私のせい!」有紀がすぐさま身体を揺らし、また目を赤くした。
「お姉ちゃんのスープが飲みたかったから……こんなことに……」
たった一言で、行船は妻に向けるはずだった言葉を忘れる。
「有紀、君のせいじゃない」
翔太も椅子からするりと降り、有紀の脚に抱きついた。
「おばちゃん、なかないで! ばあばがいってた。ママは皮があついから、やけどへいきだって」
その光景を見た途端、友香は膝から力が抜けそうになった。
何をしても、結局、負けるのは自分だ。
「キッチン、まだ料理があるから」
深く息を吸い、淡々と言って、振り返らずにキッチンへ戻る。
バタン!
扉を閉めた音が、外のすべてを遮断した。夫と息子が有紀を慰める声も、遠ざかっていく。
そのときになってようやく、友香は震える指をほどいた。
掌は赤く腫れ上がり、焼けるような痛みが遅れて広がってくる。
蛇口をひねり、冷たい水をざあざあと当てる。
痛みは少し和らいだが、胸の奥の鈍痛は消えない。
火傷したのは自分なのに。
夫も息子も、有紀のほうへ我先にと駆け寄った。
友香には、視線ひとつ、気遣いひとつ、なかった。
……もういい。
有紀が帰国してからの半年、こんなことは日常茶飯事だ。慣れているはずだろう。
行船はいつも言う。
有紀は昔から身体が弱く、海外で苦労した。身内として償ってやるべきだ、と。
だが友香は、どうしても受け入れられない。
有紀は異母妹で、年も一歳しか違わない。
母が友香を身ごもっている時、父はすでに浮気をしていた。
騒動が露見し、母は悔しさで心を病み、やがて亡くなった。
だというのに、その翌日には有紀母娘が堂々と菅田家へ入り込んできた。
そして何より許せないのは、母の葬儀で有紀が笑いながら耳元で囁いた言葉だ。
「よかった! あんたのママ、やっと死んだね」
あの毒を含んだ笑顔を、友香は一生忘れられない。
藤原行船は幼なじみであり、隣家の少年だった。
母が亡くなった頃、彼だけが黙ってそばにいてくれた。あの時の友香が唯一掴めた温もりだった。
のちに外祖父に引き取られて東山家へ戻り、二人は離れた。手紙だけが繋がりだったが、それも次第に減っていく。
そして藤原家と菅田家の縁組で、再び出会った。
――そんな優しく温かいはずの行船が、友香の意思を無視して有紀の世話をすると言い張った。
理由は、菅田明弘の遺言で有紀を託されたから。
彼は言った。有紀には何の罪もない、ただの被害者だ。悪いのは親の世代だ、と。
息子まで彼の側についた。
友香は、子どものために。そして行船がかつてくれた希少な温かさのために、ひとまず譲った。
いつか必ず、有紀の本性を暴くと決めながら。
有紀が無実かどうか――それを一番知っているのは、友香だ。
だが現実は、思い通りにならなかった。
半年が過ぎ、行船の天秤は完全に有紀へ傾いた。
そして命がけで産んだ子どもまで、日に日に友香に冷たくなり、「おばちゃん、おばちゃん」と尻尾のように有紀の後をついて回る。
……決断する時が来たのかもしれない。
友香は水を止め、乱暴に手を拭いてダイニングへ戻った。
角を曲がったところで、翔太の明るい声が聞こえる。
「ママ、まだ出てこないの? ほんと、めんどくさい!」
有紀が彼の鼻先を軽くつついた。
「翔太、ママはおばちゃんのお姉ちゃんだよ。そんな言い方、だめ」
行船は黙って、容姿端麗な有紀を見つめる。その眼に、薄い賞賛が浮かんでいた。
有紀は気づかないふりをして、翔太に優しく言い聞かせる。
だが翔太は引かない。
「おばあちゃんもそう言ってた! ママは役立たずの主婦で、毎日パパのお金ばっか使うって!」
行船が低く叱った。
「翔太」
しかし声音に、本気の叱責はほとんどない。
有紀がすぐに庇う。
「行船兄さん、翔太にそんな言い方しちゃだめ。海外の教育って、子どもの個性を伸ばすのが大事でしょ。尊重と自由をあげないと、心に問題が出やすいんだよ」
行船は押し黙った。
味方を得た翔太はさらに大声になる。
「おばちゃんの言う通り! ママってあれダメこれダメで、うざい」
「おばちゃんが一番いい。何でもしていいもん」
そう言って、翔太は絵を一枚取り出した。
「これ、本当はママにあげるつもりだった。でも、おばちゃんいじめて謝らないから、ママきらい!」
絵を有紀の胸に押しつける。
「おばちゃん、これあげる。おばちゃんがママになってよ!」
友香の胸が、ざっくりと抉られたように痛んだ。
命がけで産んだ息子が、よその女に母になれと言う。
しかもその「よその女」が、有紀だ。
ダイニングで有紀がにこにこ答えようとした、そのとき。
視線の端が、廊下の角に立つ影を捉えた。
有紀は目を細め、翔太の頭を撫でる。
「翔太、その質問……パパに聞いてみよっか?」
翔太は目を輝かせ、こくこく頷いた。
有紀は行船の腕に絡みつき、甘えるように揺らした。声は軽く、柔らかい。
「行船兄さん、ひとつ聞いてもいい?」
行船は何かを察したように横を向き、気まずそうに咳払いをする。それでも声は、友香が知らないほど甘かった。
「聞け」
有紀は唇を噛み、潤んだ瞳で見上げる。まるで一生分の勇気を振り絞ったかのように。
「もし……あの時、おばあ様に結婚を迫られなくて、私も海外に行かなかったら……あなたは、私を選んでた?」
