第002章
「……する。けど……」
たった一言。なのに、その瞬間、菅田友香の耳の奥がじんと痺れた。
心臓の奥に張りつめていた一本の糸が――「ぷつん」と切れる音がした。
痛い……。
友香は胸元を押さえ、ゆっくりと身を折る。
――そういうことだったのか。
結婚して六年。藤原行船は、冷たくて、淡白で、欲のない人だと信じてきた。
それでも昔の情があったから、妻として、母として、真面目に役を演じ続けた。
あの頃、勢いのあった仕事の未来さえ手放して。
菅田有紀にだって、一度は折れた。
けれど違った。
彼の冷淡さには、理由があったのだ。
……どうして忘れていたのだろう。
友香が菅田家を離れていた丸五年。
彼の隣にいたのは、いつだって菅田有紀だった。
だから手紙も減っていった。
わずかに届く便りの中で、たまに有紀の名前が出ても――最初は怒りと軽蔑に満ちていた言葉が、いつの間にか、さらりと流す一行に変わっていた。
気づくのが遅すぎた。
政略結婚の話が持ち上がったとき、友香は「想い合う者同士がようやく結ばれた」と思い込んだ。
でも行船にとっては――妥協だった。
菅田有紀こそ、彼の高嶺の花。
菅田友香、もう諦める時だ。
再びダイニングに戻ってから、友香は口を閉ざしたまま、ただ俯いて食べ続けた。
誕生日ケーキに願いをかける時でさえ、異様なほど静かだった。
息子が「有紀おばちゃんとショッピングモールに行きたい」と騒ぎ出して、ようやく夢から覚めたみたいに顔を上げる。
藤原翔太がガムみたいに菅田有紀の脚へ絡みつく。
「おばちゃん、いっしょに行こ」
藤原行船が片手で引き剥がした。
「おばちゃんは体が弱い。困らせるな」
ところが有紀は困ったように眉を下げ、わざと友香をちらりと見る。
「でも、お姉ちゃんが……9時には寝なさいって決めてるし……」
翔太が振り返り、友香をきっと睨んだ。
「ママ、きらい!」
今日二度目。
なのに胸は、不思議なほど凪いでいた。波ひとつ立たない。
友香は息子を静かに見て言う。
「行きなさい。もう、9時に寝ろなんて言わない」
「やったー!」
翔太が跳ねるように声を上げ、有紀と行船の手を引いて飛び出していく。
行船は玄関で少しだけ逡巡し、振り返った。
「友香……おまえも一緒に行くか?」
有紀も足を止め、期待するように見つめてくる。けれど瞳の奥に、すっと陰が走った。
友香はそれを見て、淡く返す。
「疲れたの。行きたくない」
行船が何か言う前に、有紀がさっと「理解ある妹」の顔を作った。
「お姉ちゃん、今日は本当に大変だったもんね。行船兄さん、家で休ませてあげよ?」
行船はそれ以上誘わず、二人を連れて出ていった。
去り際、有紀はわざと友香へ視線を投げる。
目尻と眉に、露骨な挑発を滲ませて。
友香は表情ひとつ変えなかった。
道化を見送るみたいに、ただ静かに。
三人の気配が消えると、友香は部屋へ戻り、荷造りを始めた。
やってみて、愕然とする。
自分の物が、驚くほど少ない。
この六年、夫と息子にすべてを注いできたのだ。
なんて、空っぽで――惨め。
必要な衣類と日用品だけ残し、他は箱に詰めた。
一部は家の手伝いの田中さんに渡し、残りは捨ててもらうよう頼む。
田中さんは何か言いたげに友香を見たが、結局、ふっと息を落としただけで出ていった。
片づけを終え、友香はスマホを手に取る。
放置していたメールに返信し、そのまま連絡先を開いて指を滑らせた。
……そこで、指が止まる。
菅田有紀が、さっき上げたSNSの投稿――。
深夜0時近く。
藤原行船は眠りこけた翔太を抱えて帰宅した。
妻の小言を覚悟していたのに、リビングに人影がない。
六年間、どれだけ遅くなっても、菅田友香は橘色の灯りをひとつ残し、待っていたのに。
胸が、ざわりとする。
息子を寝かせ、忍び足で寝室へ入る。
ベッドの上に、薄い背中が見えた。
行船の胸に、淡い罪悪感が芽生える。
事情があって結婚したとはいえ、友香が良い妻で良い母だったことは否定できない。
今日は有紀のことで、少し彼女を蔑ろにしたかもしれない。
そう思った瞬間、浅い眠りの友香が目を開けた。
行船はすぐに上等そうな箱を差し出す。
「プレゼントだ。誕生日おめでとう」
行船の身体から、ほのかに梔子の香りがした。
有紀が好んで使う香水の匂い――それが、容赦なく鼻腔を満たす。
友香は一気に目が冴え、布団をはねて起き上がった。
「もうお金、振り込んだでしょ?」
毎年そうだ。朝一番に振り込み、それで終わり。
行船は箱を開ける。
「夕食のときは、俺が焦りすぎた」
言葉はそれだけ。
けれど友香にはわかってしまう。これが彼なりの謝罪だ。
適当な贈り物を買い、曖昧な言葉を一つ添える。
――でも今回は、わかりたくなかった。
友香は一瞥しただけで、手を伸ばさない。
行船は眉を寄せ、彼女の手に箱を押し込んだ。珍しく宥めるように声を落とす。
「意地張るな。な?」
そう言って身を屈め、友香の目元に口づけようとする。
昔から行船は、友香の目にキスをするのが好きだった。「星みたいにきれいだ」と言って。
けれど今は、触れてほしくなかった。
友香が顔を背け、行船の唇は空を切る。
行船は戸惑って妻を見る。
友香は贈り物を見つめたまま、どこか虚ろだった。
行船が覗き込む。
「どうだ? 気に入ったか?」
友香は突然顔を上げ、瞬きもせず行船を見据えた。
「ピアス? 私、耳に穴開けてないって知らないの?」
澄んだ眼差しに刺され、行船は気まずそうに視線を逸らす。
「悪い……気づかなかった」
友香は、ふっと笑う。
「気づかなかった? それとも、どうでもよかった?」
行船の声に苛立ちが滲んだ。
「そこまで細かく言う必要があるのか?」
友香は深く息を吸い、箱をひったくり返すように彼の手へ押し戻した。
「これ、菅田有紀に返して」
そして、静かに言い切る。
「彼女が要らない物なら、私だって要らない」
