第005章

菅田有紀のために、今にも飛び出しそうな勢いで庇い立てする父子を見て、菅田友香の表情はすっと冷えた。

――こういうこと、もう何度目だろう。

以前の彼女なら、必死に説明したはずだ。

父子がどれだけ自分の言葉を信じず、ただ一方的に菅田有紀を贔屓し続けたとしても。少年の頃からの情も、息子の前での自分の立場も、友香にとっては捨てられないものだったから。

でも今回は、もういい。

友香は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げていく。藤原行船と目線が合うところまで。

そして、凪いだ声で言い放った。

「あなた、何様? 私があなたの言うことを聞く理由、あるの?」

藤原行船の顔が険しくなる。

「友香。ふざけるのも、場所をわきまえろ」

すると、行船の背に庇われた菅田有紀が、真っ白な顔でこほっと咳をした。

「行船兄さん、怒らないで……お姉ちゃん、きっと焦っちゃっただけ。わざとじゃないと思うの」

言いながら、目尻がじわりと赤くなる。

けれど彼女が視線を落とした、その刹那――友香は見た。唇の端に、ふっと浮かんで消えた笑みを。

その笑みを、周りの誰も見ていない。

もちろん、藤原行船も。

だからこそ行船は、さらに眉間の皺を深くした。

「有紀、おまえは優しすぎる」

そして友香へと向き直るなり、声を冷やす。

「友香、有紀に謝れ」

……は。

お似合いだこと。

今まで、どうして気づかなかったんだろう。

気持ち悪い。

反吐が出るほど――気持ち悪い。

けれど不思議と、人は吐き気が限界まで来ると、笑えてしまうらしい。

友香は、口元だけで薄く笑った。

「謝る?」

「藤原行船、頭おかしいの?」

さらに、か弱そうな顔を作っている菅田有紀へと視線を投げる。

「それと、あなた」

「毎日『お姉ちゃん』だの何だの言わないで。うちの母は私しか産んでない」

ざわっ、と空気が揺れた。

周囲の見物人が指さし、ひそひそと声を交わし始める。

それに気づいた菅田有紀の身体が、ぴくりと固まった。

次の瞬間、彼女は低い声で行船を宥めにかかる。

「行船兄さん、私は本当に大丈夫。お願い、私のことでお姉ちゃんと喧嘩しないで……」

そして今度は藤原翔太へ。声はますます細く、今にも消えそうになる。

「翔太……おばちゃんが悪いの。私が役に立たなくて、ちゃんと立っていられなかっただけ……ママのこと、疑っちゃだめ……」

その姿に、翔太は不満そうに頬をふくらませた。

「ちがう。ママが押したんだもん。ぼく、うそついてない」

言い切ると、翔太は友香へ向き直り、小さな顔をきゅっと引き締める。

「ママ、ぼくに言ったよね。悪いことしたら、ちゃんと認めて、ごめんなさいするって。なのにママは? なんでおばちゃんに謝らないの?」

翔太は賢い。いや、年齢のわりに賢すぎるくらいだ。

教えたことはすぐ覚えるし、言われた言葉も、そのまま使ってみせる。

口うるさい義母でさえ孫を溺愛し、「この子はきっと大物になる」と言い、友香の教育を珍しく褒めたほどだった。

――まさか、その「教育」が、いつか自分を刺す刃になるなんて。

覚悟はしていた。父子に期待なんて、もうとっくにしていない。

それでも、この瞬間だけは胸の奥がきゅっと苦くなる。

友香は、菅田有紀の隣を守るように立つ二つの影を静かに見た。

大人と子ども。けれどその並びは――まるで家族写真の一枚みたいで。

少なくとも、自分よりは「家族」に見えた。

友香は視線を落とし、まだ怒りを隠さない息子に向けて、ゆっくり口を開く。

「うん。確かに言った。悪いことをしたら、謝りなさいって」

そこで一拍おいて、言葉を区切った。

「でも――」

そして、一字ずつ噛むように告げる。

「私は、悪いことをしてない。なのに、どうして謝るの?」

父子は、いつもこうだ。

口を揃えて、責めて、脅して、友香に有紀への謝罪を迫る。

彼らは知らない。

これまで友香が折れてきたのは、家庭のためだ。いわゆる『家族の情』のためだ。

けれど今は、もう違う。

弱みがない人間に、誰も頭を下げさせられない。

それでも翔太は食い下がる。

「でも、ぼくとパパ、見たもん。ママが、おばちゃん押した」

ぷうっと唇を尖らせる息子を見て、友香はふいに腰を落とした。

しゃがみ込み、同じ高さでまっすぐ目を合わせる。

「じゃあ、翔太。あなた、もう一つ忘れてない?」

「誰かがいじわるしてきたら、怖がらないで――やり返しなさい、って。ママ、そう教えたよね」

翔太はまだ五歳そこそこだ。言い返し方が分からず、言葉に詰まる。

それでも納得できずに、もごもごと抵抗する。

「で、でも……」

そのとき、冷静さで知られる小林弁護士が、ついに立ち上がった。

「坊や。あなたのお母さんは悪くないよ。そんなふうに決めつけたら、だめだ」

言い終えると、小林弁護士は藤原行船へ向き直り、真摯な顔で続ける。

「藤原さん、でよろしいですか。私が見ていましたが、先ほど菅田さんは、このお嬢さんを押していません」

藤原行船はそこで初めて、菅田友香の隣に若い男がいることに気づいた。

そして一目で、ぞくりとするほど不快になる。

眉がきつく寄る。

「……うちの家庭の問題だ。部外者には関係ない」

「それに、あなたは誰だ。なぜ俺の妻と一緒にいる」

小林弁護士が答えるより早く、友香が一歩前に出て、彼の前に立った。

「あなたは毎日、菅田有紀と一緒にいるのに?」

「私が普通の友達とご飯を食べたら、そんなに不思議?」

皮肉が濃く滲むその言葉に、藤原行船はようやく妻をちゃんと見る。

そして、その瞬間。

菅田友香が今日は、雪みたいに白い、身体の線がきれいに出るワンピースを着ていることに気づいた。

同じく白いワンピースで、か弱さを前面に出している菅田有紀とは違う。

友香には、凛とした華があった。すっと背筋が伸びる、美しさ。

――新婚初夜の彼女が脳裏にちらつく。

美しく、端正で、目を奪うほどに。

その視線の変化を察したのか、菅田有紀の顔色がさっと変わった。

「こほっ、こほっ……」

小さな咳が二つ。

それだけで、藤原行船の記憶は乱暴に断ち切られる。

行船はなおも意地を張る妻を見て、苛立ち混じりに笑った。

「友香。謝るだけだろう。そんなに難しいか?」

友香は顎を少し上げる。

「難しくない」

一呼吸。

「でも――あり得ない」

藤原行船の記憶の中で、菅田友香はずっと、優しくて気が利く妻だった。

帰りが遅くても、橘色の灯りを一つ残して待っている。

夜、書斎で仕事が長引けば、胃に優しい夜食を作って持ってくる。

酔って帰れば文句ひとつ言わず、酔い覚ましの茶を飲ませる。

けれど有紀が帰国して療養を始めてから、彼女は少しずつ言葉を失っていった。

それでも、今日みたいに正面から噛みついてくることはなかった。

行船の目が暗く沈む。

「……いい。家に帰ってから話す」

その瞬間だった。

菅田有紀が、喉の奥で苦しげに呻く。

「行船兄さん……わ、私……胸が……痛い……」

言い終えるより早く、彼女は顔面蒼白になり、心臓のあたりを押さえてふらりと揺れた。

藤原行船の顔色が変わる。

「有紀!」

次の瞬間、行船は彼女を腰から抱き上げ、出口へ向かって駆け出した。

「翔太、早く! おばちゃんを病院に連れて行くぞ!」

焦りのあまり、藤原行船は気づきもしなかった。

自分が、菅田友香にぶつかったことに。

友香は肘で弾き飛ばされるように倒れ、頭が大理石のテーブルの角へ――ごつん、と鈍い音を立てた。

力が抜け、身体がずるずると床へ滑り落ちていく。

小林弁護士が青ざめ、慌てて抱き起こした。

「菅田さん! 大丈夫ですか!?」

友香が声を出すより先に、近くから悲鳴が上がる。

「血……! 血が出てる!」

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