第006章
また、誰かが吐き捨てるように言った。
「なんなの、あの男。怪我した奥さんは放っといて、義妹だけ抱えて行っちゃったよ」
「そもそも、あいつのせいで奥さんが怪我したんでしょ」
「最低。クズ男じゃん」
菅田友香は頭がぐらぐらして、鈍く痛んだ。
小林の声が耳に届いて、ようやく少し意識がはっきりする。額に手をやった瞬間、べったりとした感触が指先に広がった。見れば、手のひらいっぱいの血。
小林は慌てて清水奈々に電話をかけ、そのまま菅田友香の肩を支えた。
「菅田さん、先に病院へ行きましょう。応急処置だけでも。清水さんもすぐ来ますから」
最寄りの病院に着いた頃になって、菅田友香はようやく完全に目を覚ました。
けれど胸の内は、驚くほど静かだった。
さっき自分を突き飛ばして、そのまま振り返りもしなかった相手が、まるでどうでもいい他人だったかのように。
小林は隣でまだ憤慨しきりに何か言っていたが、それを聞きながら、菅田友香はなぜだか笑いたくなった。
そうだ。
十年以上の片想いも、六年分の夫婦の歳月も――結局、彼のたった一度の振り向きすら手に入れられなかった。
菅田友香。
あなたって、本当に救いようのない笑い話ね。
やがて看護師が来ると、菅田友香は小林に先に事務所へ戻ってほしいと頼んだ。自分は一人で清水奈々を待てばいい、と。
小林は何度も振り返りながら、
「何かあったらすぐ電話してください」
と念を押し、さらに、
「事務所のほうが片づいたら、離婚協議書の案もすぐ持ってきますから」
と言い残して去っていった。
その背中を見送って、冷え切っていた菅田友香の心に、ほんのわずかなぬくもりが差す。
今日初めて会ったばかりの他人のほうが、夫や子どもよりもずっと自分を気にかけてくれるなんて――皮肉だった。
そのとき、看護師の声が思考を断ち切った。
「今から消毒しますね。少ししみるかもしれませんけど、我慢してください」
菅田友香は素直に頷いた。
「はい」
これ以上の痛みなんて、もうないと思っていた。
少なくとも、あのとき胸が裂けた痛みに比べれば。
消毒が終わり、看護師がさらに傷の処置を進めようとした、その矢先だった。
一人の医師が足早にやって来る。
「急いで。藤原グループの藤原社長から連絡です。連れの女性を見るために、科の人間は全員向かってください」
看護師はあからさまに顔をしかめた。
「はあ? 大げさすぎるでしょ。ちょっと驚いて、胸が苦しいって言ってるだけで、なんで全員なのよ」
医師は慌てて彼女の腕を引く。
「文句言ってる場合じゃないです。早く」
看護師は不本意そうに器具を置き、菅田友香に言った。
「少し休める場所で待っていてください。終わったら、すぐ戻ってきますから」
そうして彼女が去ったあと、菅田友香は一人、ゆっくり休憩スペースへ向かった。
ある場所を通りかかったとき、足がぴたりと止まる。
医師も看護師も、みな一ヶ所に集まっていた。
嫌な予感がした。
人垣の隙間から見えたのは、白いワンピースの背に添えられた、すらりと長い指。
その薬指には、見慣れすぎた指輪があった。
さらに、その指が一瞬だけためらうように止まり――次の瞬間には、腕の中の女をいっそう強く抱き寄せる。
ほんの一瞬だけ、飛び込んでいって、全部ぶち壊してやりたいと思った。
泣いて喚いて、問い詰めてやりたいと。
でも、すぐにその気持ちは消えた。
自分でも不思議なほど、もう藤原行船と言い争いたいとは思わなかったからだ。
今の彼は、菅田友香の中で、完全に赤の他人だった。
いや、他人以下かもしれない。
目の前にいても、心が一つも揺れない。
何の痛みも、怒りも、期待もない。
藤原行船――もう、あなたは私の好きな人じゃない。
清水奈々が駆けつけた頃には、看護師がちょうど戻ってきて、菅田友香の傷の処置を終えたところだった。
事情を聞いた清水奈々は、目の縁を真っ赤にしながら怒鳴り散らし、その勢いのまま薬を取りに外へ出ていく。
だが、その背中が見えなくなった直後。
菅田有紀が、菅田友香の前に姿を現した。
白いワンピースに、守ってやりたくなるような華奢な顔立ち。
立っているだけで清純派そのもの――そんな見た目とは裏腹に、その顔にはもう藤原行船の前で見せていた従順さも、か弱さもない。
代わりに浮かんでいたのは、むき出しの悪意だった。
菅田有紀は身をかがめ、耳もとで囁くように言う。
「お姉ちゃん、これでよく分かったでしょ? 私とあんたの間で、行船が選ぶのは、これからもずっと私だけ」
菅田友香はまぶたを持ち上げ、無表情に彼女を見た。
何も言わない。
その静けさが、かえって菅田有紀の苛立ちを煽ったらしい。
少し考える素振りを見せてから、わざとらしく笑う。
「そうだ。お姉ちゃん、去年の行船兄さんの誕生日、覚えてる?」
細い目尻に、得意げな色がにじむ。
「あの日ね、私、ちょっと体調悪いってメッセージしただけなの。そしたら行船兄さん、すぐ全部放り出して、その日のうちに私のところまで飛んできてくれたんだよ」
去年の、藤原行船の誕生日。
その言葉に、菅田友香は一瞬ぼんやりした。
そして、すぐに思い出す。
あの日、自分は彼の誕生日を祝うために、いつも通り手料理を山ほど用意した。
彼の好きなものを一品ずつ並べて、さらに藤原家の人間まで屋敷に招いて。
なのに、夜になっても彼は帰ってこなかった。
自分の手で打った長生きを願うお祝いの麺はのびきって固まり、待ち続けた末に届いたのは、たった一通のメッセージだけ。
――用事がある。帰るのは明後日だ。
あの日、自分は一人で藤原家の相手をし、笑顔を貼りつけたまま全員を見送り、最後には姑と小姑から散々文句まで言われた。
その頃、藤原行船は何をしていたのか。
なるほど。
花のように大事な女のそばで、優しく付き添っていたわけだ。
けれど、もうどうでもよかった。
本当に、何もかも。
菅田友香は菅田有紀に向かって、ふっと笑う。
「それはおめでとう。ちょうど私も、もういらないと思ってたところだから」
「……っ!」
菅田友香が少しも傷ついた顔を見せないせいで、菅田有紀のほうが面食らったように息を詰まらせる。
全力で殴った拳が、綿に沈んだみたいに手応えがない。そんな苛立ちが、顔にありありと出ていた。
まだ何か言って嫌味を重ねようとした、そのとき――少し離れた場所から藤原行船の声が飛ぶ。
「有紀? どこへ行った」
菅田有紀は奥歯を噛みしめたが、次の瞬間にはさっと表情を塗り替えた。口元に淡い笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん、今日はここまでにしとくね。また今度、ゆっくり話そう?」
菅田友香も微笑みを返す。
「ええ。急がないわ。時間はたっぷりあるもの」
菅田有紀が立ち去った直後、菅田友香のスマホが鳴った。
「え……オークション?」
曲がり角の向こうで、菅田有紀は足を止めたまま、静かに振り返る。
その唇に浮かんでいたのは、必ず勝つと信じて疑わない笑みだった。
