第007章
病院のVIP特別個室。
さっきまで「勝手にうろうろしていた」菅田有紀は、藤原行船にきつく叱られたばかりだった。
相手の目尻がまた赤くなったのを見るなり、行船はすぐ声のトーンを落とす。
「さっき院長に話してきた。念のため、この機会にちゃんと検査してもらおう」
菅田有紀の表情が、ほんのわずか強張った。
菅田友香を陥れるための芝居――どうやら、少しやりすぎたらしい。
だからこそ彼女は、慌てて困ったような笑みを作った。
「行船兄さん、私ほんとに大丈夫。ちょっとびっくりしただけで……そこまでしなくても」
だが藤原行船の顔は、怖いほど硬い。
「だめだ。さっき、顔色が真っ青だった。何があっても一通り診てもらう」
菅田有紀は少し考え、ふっと何かを思いついたように眉をほどいた。
彼女は甘えるように行船の腕へしがみつき、ゆらゆら揺らす。
「うん。行船兄さんが私のこと考えてくれてるの、分かってる。ちゃんと受ける」
藤原行船の表情がようやく緩み、彼女の艶やかな長い髪をそっと撫でた。
「いい子だ」
菅田有紀は唇をきゅっと噛み、潤んだ目で見上げる。
「行船兄さん、ほんとに優しい……」
「もし、あの時私がお姉ちゃんに負い目なんて作らなくて、無理やり海外に行かされることもなくて……私たち――」
藤原行船は顔色を変え、言い終える前に早口で遮った。
「もう終わった話だ。それより、腹減ってないか? 翔太を呼んで、何食べたいか聞いてくる」
そう言うなり、有紀の返事も待たずに、足早に病室を出ていった。
ドアの向こうへ消えていく背中を見送ると、菅田有紀の弱々しい目元は、じわじわと歪んでいく。
どうして?
菅田友香とはもう修復不能なほどこじれているくせに、どうして私のほうを選ばないの?
ほどなくして藤原行船は、藤原翔太を連れて戻ってきた。
翔太は有紀の姿を見た瞬間、ぱたぱたと駆け寄り、細い腰にぎゅっと抱きつく。
「おばちゃん、まだ痛い? 翔太、さっきすっごく心配した」
菅田有紀は微笑んで、翔太の頭をくしゃりと撫でた。
「もう痛くないよ。翔太、お腹すいた? おばちゃんに言って。何が食べたい?」
その瞬間、翔太のお腹が「ぐう」と鳴った。
彼は生まれつき胃腸が弱く、いつも時間きっちりに食べる子だ。
本当はもう、とっくに空腹だった。
けれど有紀が心配で我慢していたのと、ふだんの行船が険しい顔ばかりで怖くて、言い出せなかったのだ。
有紀に促されると、頭の中にじゅわっと香ばしいフライドチキンが浮かぶ。
ただ、菅田友香は外のものをむやみに食べさせない。「栄養が偏るし、体に良くない」と言って。
そのせいで翔太が口にしてきたのは、菅田友香が栄養バランスまで考えて用意した料理ばかりだった。
正直、菅田友香は父子のために、薬膳だけでなく料理の腕まで磨いてきたのだろう。最高級とまではいかなくても、味は確かに良かった。
それでも毎日となれば、どうしたって飽きる。
翔太は勇気を振り絞って、小さな声で言った。
「ぼく……フライドチキン、食べたい……」
言い終える前に、藤原行船がすかさず切り捨てた。
「だめだ。お母さんが言ってただろ。体がしっかり治るまでは、脂っこいものは食べない」
翔太はむっと口を尖らせる。
その様子を見て、菅田有紀はすぐ「味方」の顔になる。
「お姉ちゃん、心配しすぎだよ。翔太ももう大きいんだし、たまに一回くらい大丈夫」
「これダメ、あれダメって、子どもらしさを押さえつけてるみたい」
藤原行船は黙り込んだ。
そして次の瞬間、諦めたようにスマホを取り出す。
「……分かった。どこの店がいい? 運転手に買わせる」
翔太と有紀は目を合わせ、ぱっと声を上げた。
嬉しそうにべったり寄ってくる翔太を見ながら、菅田有紀は瞳の奥で、勝ち誇った色をちらつかせる。
ちょろい。
この子さえ掴んでおけば、行船兄さんはそのうち、私を受け入れる。
三人でフライドチキンを食べ終えると、藤原行船は手品みたいにスープを一杯取り出し、菅田有紀に飲ませた。
父子に見張られるような形で、菅田有紀は眉をひそめつつ半分ほど口にしたが、すぐ顔をしかめる。
「……ちょっと、飲みにくい」
藤原行船は眉間を寄せた。
「じゃあ、明日は何がいい? 言ってくれ。必ず買ってくる」
菅田有紀は頬杖をつき、考え込むふりをする。
けれど心の中では、とっくに決めていた。
菅田友香に薬膳スープを煮込ませるのだ。
散々な目に遭わせておいて、それでもご機嫌取りみたいに食事の世話をさせる――胸が悪くなるほど痛快だ。
菅田有紀は甘く笑った。
「……私、お姉ちゃんが煮てくれたスープが飲みたいな」
藤原行船は甘やかな笑みを浮かべる。
「いい。明日の朝一で起きて煮させよう。しっかり滋養つけないとな」
菅田有紀は、わざとらしく迷う顔を見せた。
「でも、お姉ちゃんに迷惑かけちゃうし……まだ怒ってるかもしれない」
藤原行船は手をズボンのポケットへ戻し、断言する。
「おまえは妹だ。それに、驚かせて入院させたのはあいつだ。世話するのは当然」
菅田有紀は慌てて「弁護」する。
「行船兄さん、違うって言ったでしょ。お姉ちゃんが押したんじゃないのに……どうして信じてくれないの?」
拗ねたように背中を向ける有紀を見て、藤原行船は苦笑しつつ、どこか胸を打たれた。
「まったく……おまえは優しすぎる。だからいじめられるんだ」
菅田有紀はぱっと機嫌を直し、振り向きざま行船の腰に抱きつく。
「だって、行船兄さんが守ってくれるもん。……それとも、もう私のこと放っておくの?」
甘えた視線に、藤原行船は困ったように息を吐いた。
「分かった分かった。面倒は見る。妹として、一生な」
「約束だよ」
そう囁き、菅田有紀は行船の胸へ頭を埋める。
藤原翔太が横で見て、指で自分の頬をこすった。
「おばちゃん、はずかしー。おっきいのに、パパにだっこ」
藤原行船は一瞬迷ったが、結局、有紀を押しのけられなかった。
――この子は、優しすぎて放っておけない。
いじめられても、菅田友香を庇う。
昔、菅田家に来たばかりの頃は、てっきり有紀のほうが友香をいじめているのだと思っていた。
だが、だんだん分かってきたのだ。学校で友香がクラスメイトを巻き込み、特に清水奈々とかいう女が、隙さえあれば有紀に嫌がらせをしていたことを。
それでも有紀は、友香を守ろうとして、何ひとつ言わなかった。
そしてその後――ずっと自分のことを好きだった菅田友香は、政略結婚を成立させるために、情に訴えて有紀を海外へ追いやった。
それで、自分たちは……すれ違った。
藤原行船がそんな感傷に沈んでいる、その腕の中で。
菅田有紀は、冷えた計算の光を瞳いっぱいに湛えていた。
妹?
私が欲しいのは、藤原家の奥様の座よ。
有紀を宥め終えると、藤原家の父子はしばらく付き添い、それから病院を後にした。
二人の背中を見送りながら、菅田有紀はゆっくり唇を吊り上げる。
勝ち誇った笑みが、にじむように浮かんだ。
菅田友香。私と張り合うつもり?
来世でね。
藤原家。
藤原行船が息子を連れて家に入ると、菅田友香は黙々と夕食を口に運んでいて、二人のほうを一度も見ようとしなかった。
しかも、さらに腹立たしいことに――テーブルに並んでいるのは、菅田友香の分の料理と食器だけだった。
