第3章

 三日間、診療所の換気口から吐き出される空気は、銅の味と腐臭を帯びていた。

 アンナは簡易ベッドから一歩も動かなかった。湿った呼吸のゼロゼロという音が、廊下の奥まで反響している。

 もう限界だった。私は母の院長室に踏み込み、スマートフォンを鋼鉄の机に叩きつけた。画面には、私が撮った薬局の投薬記録が光っている。

「シクロスポリン? タクロリムス?」声は震えたが、視線だけは逸らさないように踏ん張った。「ビタミンなんかじゃない。免疫を壊してる。どうして?」

 母は眉ひとつ動かさなかった。太いペンを取り上げ、退院同意書の束に淡々と署名していく。

「今度はレディットで医学を学んだの、クララ?」囁き声に近い調子で母は言った。「宿主の身体は、急速な細胞分裂を自然に拒絶する。嚢を生かすために反応を抑えているだけ。基礎免疫学よ」

「彼女、ドロドロしたものを吐くように咳してるんだ!」私は叫んだ。

 母はペンを落とした。椅子がタイルを擦って嫌な音を立てる。「それでも私はここを回してる。あなたの心臓を動かしてる血清だって、私が買ってる。二度と私のやり方に口を挟まないで。出て行きなさい」

 その権威が、残っていた反論を押し潰した。私は院長室から後ずさりで出ていった。爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめて。

 静けさが続いたのは、午前二時十四分までだった。

 外周のブザーが鳴った。警備映像を確認すると、雨の中に州上院議員が立っていた。ネクタイを緩め、汗で顔がぬらぬら光っている。若い女が彼の傘の下で身を縮め、肘を抱いて震えていた。

 母が解錠した。

「父親が、さっき倒れて脳卒中だ」議員は息を切らし、ロビーに踏み込むなり言った。「遺産は、確実な後継ぎがいる息子に入る。兄貴はもう病院にいる。今夜中に妊娠が必要だ。三千万、現金で払う」

 母はアンナのバイタルを監視する端末に目をやった。数値が黄色く点滅している。

「準備に時間が必要です。私の助手は……疲弊しています」母は言った。

「三千五百万!」議員が革のブリーフケースをカウンターに叩きつけた。「手段はどうでもいい。やれ」

 母の口元に薄い笑みが浮かんだ。「ここでお待ちください」

 私は彼女の後を廊下へ追った。胃の底に嫌なものが溜まっていく。母は滅菌室を素通りし、まっすぐアンナの部屋に押し入った。

 アンナは意識がなかった。肌は灰色に変わり、ひび割れた唇には血がこびりついている。母は脈も確かめない。アンナのスクラブの襟を掴み、ベッドから引きずり降ろした。

 アンナの裸足が床をずるずると擦った。

「やめて!」私は飛び込み、母の手首を掴んだ。「見てよ。臓器が止まりかけてる。あのチャンバーに入れたら、機械が殺す!」

「離しなさい」母がシッと吐き捨てた。目に切迫した光が走る。

「いや! そんな——」

 バチン。

 青い火花が私たちの間で弾けた。鼻を突くオゾンの匂い。母は私の鎖骨から指一本分のところにスタンガンを突きつけていた。

「下がれと言ったわ」母親らしい声ではなかった。刑務所の看守のような声だった。

 私は凍りついた。目に涙が滲んで痛い。両手をゆっくり上げ、壁際まで後退した。

 母はアンナを引きずって中央ロビーへ戻り、議員の連れてきた女を手術室に押し込み、アンナを助手椅子へ放り投げた。

 鋼鉄の扉がシューッと鳴って閉まり、施錠された。枠の上の回転灯が回り始める。

 議員は爪を噛みながら部屋を行ったり来たりした。私は流し台のそばで身を縮め、震えるばかりだった。

 遠心機のエンジンが唸りを上げた。これまで聞いたことがないほどの大音量で、安全限界を平然と突き抜けていく。

 そして、悲鳴。

 最初は、あの女の声だった。痛みに引き上げられていく甲高い叫び。だが一秒もしないうちに、別の何かがそれを覆い尽くした。

 獣の咆哮だった。声帯が裂けていくような音、続いて圧力に耐え切れず肋骨が潰れる、くぐもった鈍い砕け音。

「……あれ、ああいう音がしていいのか?」議員がどもり、ガラスから後ずさった。

 膝が抜けた。私は床に叩きつけられる。

 扉の上のモニターがストロボのように明滅し、途切れない警報が空気を切り裂いた。

 緑のバイタル波形が、真っ赤な一直線に変わる。

「そんな……! 何が起きてるの?」

 私はそのフラットラインを見つめたまま、呼吸の仕方を忘れていく。

 重い鋼鉄扉がシューッと鳴って解錠された。

 医療現場のパニックが来ると身構えた。だが、湧き立つ蒸気の向こうから現れた母は、信じられないほど落ち着き払っていた。腕に抱えているのは泣く新生児ではない。母が掴んでいたのは補強されたチタン製の円筒だった。曇ったガラスの内側で、黒い何かが激しくのたうっている。

 議員はその円筒をひったくり、貪欲な恍惚とした表情で顔を輝かせると、出口へ向かって駆け出した。

「完璧な収穫ね」母が小さく呟いた。

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