第1章
ここは、人間と人外の種族が共存する時代。人狼は高層ビルの谷間を駆け、雲間にはときおり巨大な竜の翼が影を落とす。一族が生き残り、発展するために、本家は二十年前、竜族と一通の契約を交わした。
分家の中でもとりわけ冷遇されてきた娘である私が、竜王の伴侶に選ばれたのだ。契約にははっきりと記されている。成人してから五年以内に嫁げなかった場合、竜族の領地へ赴き、婚姻の義務を果たすこと。
そしてこの五年間、私の結婚式は一度としてまともに執り行われなかった。すべては、妹のハンナに台無しにされたのだ。
今日は五年目。ようやく私は純白のドレスに袖を通し、幼なじみのデレクに嫁ぐはずだった。
――まさか、式が始まる一時間前に、ハンナが血を吐いて控室で倒れるなんて。
彼女はデレクの手にすがり、泣きながら言った。自分は今月を越えられない、と。
その横で、両親は私の肩を左右からがっちり押さえつける。
「ハンナに式を譲りなさい! あの子はもうすぐ死ぬのよ!」
彼らは知らない。私が今日デレクと結婚できなければ、竜族の使者が即座に私を連れ去ることを。
そして一度行けば、もう二度と戻れないことを。
一秒前まで、私は鏡の前に立っていた。真っ白なドレスを見つめながら、少し後にデレクがどんな顔で私を迎えるのか、そんなことを想像していた。
次の瞬間、控室の扉が乱暴に押し開けられた。両親が飛び込んできて、私の肩を左右から押さえつける。
母の声は、有無を言わせない強さを帯びていた。
「ハンナが危篤なの。式はあの子に譲りなさい。あの子は小さい頃からずっと苦労してきたでしょう? 死ぬ前に一度くらい、晴れやかに花嫁になりたいのよ。あなたは条件もいいし、結婚なんてこの先いくらでもできるじゃない」
父も追い打ちをかける。
「今月を越えられないんだ。最後の願いくらい叶えてやれ」
私は口を開いた。今日が、私とデレクにとって五度目の結婚式だと告げようとして。
けれど母が先回りして言った。
「デレクはもう同意してるわ」
頭が真っ白になり、私は扉口に立つデレクを見た。彼の視線は揺れている。罪悪感が滲んでいるのに、言葉だけは妙にきっぱりとしていた。
「ごめん。今回の式はハンナに譲って、願いを叶えてやってほしい。……ハンナがいなくなったら、次はもっと盛大なのを必ず挙げる。約束する」
その瞬間、急に、何も言いたくなくなった。
私が黙り込むと、彼らは嬉々としてハンナを囲み、控室を出ていった。残されたのは私ひとり。
床には、私が引きちぎるように外したベールが散らばっている。鏡の中の私は――滑稽だった。
ぶる、とスマホが震えた。画面に表示されたのは当主からの着信。
出る。
「メレディス。君の婚約者がハンナと式を挙げることにしたと聞いた」当主の声が淡々と響く。「今年で五年目だ。これ以上嫁げないとなれば、契約を履行することになる」
私はスマホを握り締めた。
「……承知しています」
「では、同意するのか」
目を閉じると、いくつもの場面が脳裏に流れ込んだ。
デレクとは幼い頃から一緒だった。彼は何度も言った。「大きくなったらお前と結婚する」――と。成人してからは式の準備を進め、周囲の誰もが私たちの結婚を待ち望んだ。
けれどそのたびに、ハンナが壊した。
一年目。式の前夜、ハンナは手首を切った。家族は私を置き去りにして病院へ駆け込み、式は中止。
二年目。式の最中、彼女は動画を送りつけてきた。屋上で飛び降りる、と。デレクも両親も狂ったように飛び出し、私は空っぽになった式場に取り残された。
三年目、四年目。毎回、彼女は別の理由を見つけてきた。交通事故、失踪、誘拐。どんなときも家族は迷いなく彼女を選んだ。
そして今年は、ついに「末期の不治の病」などという、あまりにも都合のいい嘘まで持ち出した。
私は何度も伝えてきた。今年が期限だ、結婚できなければ竜族の領地へ行くことになる、二度と帰れない――と。
それでも彼らは信じなかった。オルドリッジ本家がラングフォード分家の娘を選ぶはずがない、と。契約など脅しで、竜族が本当に来るわけがない、と。
――違う。彼らが間違っている。
「同意します、当主様」私は目を開けた。自分の声は、思ったよりもずっと静かだった。「お迎えの手配を、お願いいたします」
通話が切れる。
窓の外が騒がしい。
私は窓辺へ歩み寄った。庭には、すでに整えられた式場が広がっている。
花のアーチの下。ハンナが私のドレスを着て、デレクの腕に縋るように寄り添って立っていた。顔色は青いのに、笑みだけがやけに甘い。
招待客たちは周囲を取り囲み、次々とスマホを掲げて撮影している。
ウィットマン家の長男の結婚式――その様子は最初から最後まで配信される。私はスマホで配信ルームを開いた。画面にはコメントが流れ、投げ銭の演出が派手に踊る。
「花嫁きれい!」
「ハンナ、長生きして……!」
「デレク優しすぎる。重病の子と結婚するとか、まじ聖人じゃん」
司会の声が響いた。
「それでは、新郎。花嫁にキスを」
私の指が、無意識にカーテンを握り潰した。
デレクは一瞬だけ躊躇した。だが結局、彼は顔を伏せる。ハンナの頬を両手で包み、その唇にキスを落とした。
その瞬間、幼い頃からの記憶が閃光のように脳裏を駆け抜けた。甘いものも、苦いものも、怒りに歪んだものも、すべて。
心の奥で張り詰め続けていた何かが、ぷつりと切れた。
配信ルームのコメントが、狂ったように流れていく。演出も、ひとつ、またひとつと重なる。
その中に、不意に場違いな一文が混じった。
「え? ハンナって姉いたよね。なんで姉は来てないの?」
続けて、悪意が雪崩れ込む。
「その女でしょ。五年もデレクに粘着してたって噂。今デレクはハンナと一緒なんだし、しつこいのは姉の方じゃん」
「うわ、そういう女マジで無理。自分に価値ないくせに他人に突っかかってくるやつ」
この数年、ハンナが欲しがるものは、どんな手を使ってでも私から奪われた。
私が取った賞は「自信をつけさせるため」とハンナに渡された。バイトで貯めた金は親に「借りる」と言われ、ハンナへのプレゼントに消えた。部屋まで明け渡した。「ハンナは体が弱いから日当たりのいい部屋が必要」――そう言われて。
そして今、デレクまで。
私はスマホを置いた。
もう、何も譲らない。
だって私は――もう失うものなんて、何ひとつ残っていないのだから。
