第3章
水晶の小瓶を握り締める。指の関節が白くなるほどに。
小さい頃からずっと、この家を出たかった。必死で勉強して遠方の大学に受かり、「ハンナに譲れ」だけでできた檻から逃げ出そうとした。
けれど休暇のたびに帰れば、両親は決まって私を責めた――「妹と休みも一緒に過ごしたくないのか」と。
私は、デレクだけは例外だと思っていた。
幼なじみで、一緒に育ってきた。彼は何度も何度も「大きくなったらお前と結婚する」と言った。なのに今となっては、彼まで変わってしまった。
考えてみれば当然だ。「不治の病の末期」なんて穴だらけの嘘を、あの人たちが見て見ぬふりをした理由。
最初から決めていたのだ。デレクを、ハンナと結婚させると。
そう思った瞬間、私は目を閉じた。瓶の蓋をひねり、秘薬を一気に飲み干す。
苦味が、氷の奔流に変わって脳と心臓へ突き刺さった。
まるで誰かが鋭いメスで、胸腔の内側をざくりと切り裂いたみたいに。
身体に澱のように溜まっていた屈辱も、未練も、痛みも――そしてデレクへの、骨の髄まで卑屈な愛情も。その一切が、この瞬間、きれいさっぱり切り落とされた。
もう一度目を開ける。
世界が、どこか違って見えた。
デレクがハンナの手を引く姿。両親の冷淡な視線。五年間、何度も何度も壊されてきた結婚式――思い出しても、胸は少しも揺れない。
他人の物語を眺めているようだった。
当主が問う。
「調子はどうだ?」
「とてもいいわ」
自分の声が、やけに平静で、少しだけ自分でも陌生に感じる。
「頃合いだな」
当主は傍らの年上の女性に軽く頷いた。
年上の女性は衣箱から婚礼衣装を取り出す。
黒と金のロングドレス。裾には竜族の紋章が刺繍され、金糸が光を受けて流れるように煌めいていた。
デレクが用意した白いウェディングドレスと比べれば、天と地ほどの差だった。
年上の女性が私にそれを着せ、髪飾りを付け、最後に黒いヴェールを重ねる。
「行くぞ」
当主が先に立つ。
私はその背中に従い、部屋を出て、階段を下りた。
家を出ると、道の入口に高級車がずらりと横一列に並び、式場の人間をまるごと外へ押し出すように塞いでいた。
両親は車列の前で苛立たしげに右往左往していたが、車体に刻まれた竜族の紋章を見つけた途端、言葉を飲み込む。
そこへ当主たちが出てくるのが見え、二人は慌てて笑顔を貼り付けて駆け寄った。
「当主様、これはいったい……」父が媚びるように言う。
「続けろ」当主は淡々と告げた。「我々は竜族の花嫁を迎えに来ただけだ」
「竜族の花嫁?」母が一瞬きょとんとし、すぐに理解したように頷く。「ああ、はいはい。ではお早めに。開式の時間を逃してしまいますから」
露骨な苛立ちが声に混じる。さっさと私たちを追い払いたい、と言わんばかりに。
私は護衛に囲まれ、ゆっくりと車列へ向かった。
ふわり、と風が吹き、ヴェールが持ち上がって横顔がわずかに覗く。
人混みの中のデレクが、はっと固まった。
その立ち姿、その横顔――。
「待て!」
デレクが突然叫び、人を押し分けて前へ出る。
「この花嫁は誰だ? 今日、他にも結婚する人がいるなんて聞いてない!」
ハンナの顔色が変わり、すぐさま飛びつくようにデレクの腕に縋りついた。
「デレク、約束したでしょう。結婚式では私のことだけ考えるって」
目尻がたちまち赤くなり、声は泣き声混じりになる。
「……今の、やっぱりお姉ちゃんのこと、まだ忘れられないの?」
「だったら、結婚なんてしない。どうせ私、長くないんだもん……」
デレクの注意は一瞬で引き戻され、慌てて宥める。
「違う、俺はただ気になっただけで……」
私はもう車の横まで来ていた。護衛がドアを開ける。
振り返って一度だけ見る。デレクはハンナをなだめ、両親は参列者を教会へ急かしている。
誰も、私を見ない。
私は車に乗り込み、ドアが閉まる。
その瞬間、家の中からざわめきが起きた。
数人の護衛が、鼻も顔も腫れ上がった四人のアッシャーを引きずり出し、両親とデレクの目の前へ放り投げる。
当主の声が車窓越しに響く。冷たく、威厳に満ちて。
「こいつらは竜族の未来の女王に手を出そうとした。本日より、オルドリッジ家はこいつらの家と一切の取引を断つ。すでに衛兵へは報せを入れた。大逆の罪人として、地下牢の底で一族諸共朽ち果てるがいい」
言い終えると窓が上がり、車列は砂埃を巻き上げて走り去った。
泥酔したアッシャーの一人が地べたで喚き散らす。
「ふざけんな、竜族の女王だぁ? デレクに捨てられた女だろ! 触ったくらいで何だってんだ。あいつ結婚式五回も潰れてんだぞ、もう綺麗なわけねぇだろ! なぁデレク、そうだよな!」
「ハンナがさ、ちゃんと『可愛がってやって』って言ったんだぜ……」
デレクの顔色が一瞬で鉄青になった。
彼はアッシャーの襟首を掴み上げ、震える声で問い詰める。
「……何を言ってる。誰に手を出した?」
「へ……部屋にいた女だよ……」アッシャーがその表情に怯え、言葉を詰まらせる。「お前が黙認したんじゃねぇのか? ハンナがわざわざ――」
デレクは手を離し、よろりと一歩後ずさった。
そして、曲がり角の向こうへ消えた車列を、食い入るように見つめる。
「……そんな、はずが……」
両親もようやく事態を飲み込み、血の気を失って目を見合わせた。
「竜族の花嫁……? メレディス? 早く、早く戻って!」
