第4章

 学内警備員が駆けつけたのは十分も経たないうちだった。そのすぐ後ろから、不正行為担当の職員も到着した。ジャケット姿で名札を首から下げ、クリップボードを抱えた女性が、足早にこちらへ来る。

「通報したのは誰?」

 私は一歩前に出た。泣いていたのはこの六分間。作り物じゃない、本物の涙――前世から大事に貯め込んできたみたいな涙だ。

「私です」声は、狙いどおりのところで震えた。

「研究室の私の作業台に、使用済みのコンドームと下着が置かれてたんです。それに、この人――」治也を指さす。

「――午前二時に女性をつけ回して、先生の建物の外で写真を撮ったって。それをネットに上げて、三千人に向けて『私だ』って言いふらしたんです」

 手の甲で顔を拭った。

「私、何も覚えてないんです。薬を盛られたのかもしれない。何があったのかもわからない。お願いします……調べてください」

 警備員は治也に向き直った。手帳を開く。

「この写真を撮ったのか?」

 治也の虚勢は、バッジを見た瞬間に霧散した。顔色がさっと灰色になる。五分前までは、戦利品みたいにスマホを掲げていたのに、今は手をどうしていいかもわからない。

「ち、違う……俺は、あの子に何もしてない。ネットにちょっと書いただけだ。そ、それだけ。表現の自由だろ」

 警備員は眉ひとつ動かさない。

「高橋さん、その写真は携帯に入ってますか?」

 治也は玲奈を見た。玲奈は地面を見た。

「入ってます」群衆の中から声が上がる。澄んでいて、大きくて、まったく怯えのない声。

 伊達杏奈が、人の隙間を縫って前へ出てきた。合図を待っていたみたいに自然なタイミングだ。彼女はスマホを掲げ、画面を警備員に向ける。

「この人、ここにいる五十人くらいの前で全部言いました。日時、場所、教授の名前まで。写真も、見たい人には誰にでも見せてた」彼女は画面を軽くタップした。

「音声を三十七分録音してます。言ったこと全部。はっきり残ってます」

 杏奈はフォロワー一万人のフェミニズム系ブログを運営している。純粋な連帯感だけで来たわけじゃない。彼女がずっと欲しかった、暴くべき『ネタ』がここにあるからだ。わかっていたし、どうでもよかった。

 助けは、無私でなくても役に立つことがある。

 警備員が治也にスマホを出すよう求めた。治也は、それが四十キロもあるみたいな手つきで差し出した。

 警備員がギャラリーを指で送っていく。最初の十五秒ほどは、職務的な顔――無表情で、手順どおりの目つきのままだった。だが、途中で変わった。口元が真一文字になり、親指だけが淡々と動き続ける、あの変化だ。

 彼は画面を不正行為担当の職員に傾けた。彼女は三秒見ただけで顎をきゅっと引き締めた。

「高橋さん」警備員の声が一段低くなる。

「あなたが撮ったとしか思えない、女性の写真が二百枚あります。明らかに、撮られていることに気づいていない女性たちです。どうしてこんなものを?」

 群衆がざわりと揺れた。前のほうで誰かが息を呑む音がした。

 治也の手が震えている。

「そ、それは関係ない。ちが……ちがう、そんな――見たまんまじゃ――」

「学内のジム。図書館。コインランドリーの部屋」警備員はスクロールを止めない。

「これは……窓越しに撮ったように見えますね」

 最前列の二人の女子が同時に硬直した。片方は背景のロッカールームのタイルに見覚えがあったのだろう――自分のスマホに手を伸ばし、何かを確かめるように画面を覗き込んだのが見えた。

 囁きは、すぐに声になった。私の後ろの女子が、皆に聞こえるくらいの大きさで言う。

「……マジで?」

 別の声がかぶさる。

「私が写ってないか確認して。私が写ってないか、見て……!」

 さっきまでの自信はどこにもない。治也は肩をすぼめ、地面を瞬きながら見つめている。まるで悪夢から目を覚ましたがっているみたいに。

 不正行為担当の職員が治也に向き直る。クリップボードを持ち上げ、ペンを構えた。

「もうひとつだけ質問です、高橋さん。あなたは、その写真の女性が神崎凛だと主張しましたね。顔が写っていないのに、どうやって特定したんですか?」

 治也がごくりと唾を飲む。視線が玲奈へ走った。

 玲奈は今、群衆の端に立っていた。腕を組み、頭を垂れたまま。顔を上げない。

「玲奈が服でわかったって……」治也は言った。

「写真のジャケットは凛のだって、玲奈が言ったんだ」

 職員がそれを書き留める。

 玲奈は相変わらず顔を上げない。だが、喉が動くのが見えた。ごくり、と一度だけ強く――何かがせり上がってきて、それを必死に飲み下したみたいに。

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