第1章

 私は長い間、凍りついたように動けなかった。

 遊び疲れた亮太をなだめて寝かしつけ、ようやくリビングへと足を運ぶ。

 闇に沈んだ部屋には、壁の時計が刻む無機質な音だけが響いていた。

 山崎渡は、まだ帰ってこない。

 少し迷ったが、私は彼の番号を呼び出した。

 長いコールの末、ようやく通話がつながる。背後の雑音がひどい。男の声には、明らかな苛立ちと酒気が混じっていた。

「今、立て込んでるんだ。弟分の相談に乗ってやってる。帰りは遅くなる」

 私が口を開く間もなく、電話は切られた。

 だがその一瞬、確かに聞こえたのだ——女の甘ったるい嬌声と、「こっちにもう一杯!」と叫ぶ男たちの歓声が。

 私は何かに憑かれたようにスマホを開き、インスタグラムを更新した。

 トップに表示されたのは、数分前に陽菜が投稿した写真だった。

 位置情報:『The Sky Bar』。市中心部だ。

 薄暗い照明の中、陽菜はきらきらと輝くバースデークラウンを被り、両手を合わせてケーキに願い事をしている。

 そのすぐ隣には山崎渡が座り、熱っぽく愛おしげな視線で彼女を見つめ、口元に微かな笑みを浮かべていた。

 キャプションにはこうある。

『最高の“お兄ちゃん”。一番必要な時に、いつも私のそばにいてくれる❤️』

 私はその赤いハートマークを、ただじっと見つめ続けた。

 つまり、夫の言う「失恋して落ち込んでいる男友達」の正体は、血の繋がらないこの「妹」の誕生日パーティーだったというわけだ。

 今日、山崎渡は家を出る時、亮太に「おめでとう」の一言さえ残さなかったのに。

 私はテーブルの上にあった手つかずのホールケーキを掴み、タクシーを呼んでそのバーへと向かった。

 個室のドアを押し開けると、中では大勢が盛り上がっており、誰一人として私の存在に気づかなかった。

 山崎渡はテーブルの傍らに立ち、巨大なピンク色の三段ケーキに入刀しようとしていた。彼の手は、ナイフを握る陽菜の手に重ねられている。二人の間に隙間などないほど、密着していた。

 誰かが叫んだ。

「キスしろ! キスしろ!」

 陽菜の頬がほんのりと桜色に染まる。彼女は恥ずかしそうに山崎渡の胸に身を縮めた。

「やだ、やめてよぉ……静留ちゃんに知られたら怒られちゃう……」

 山崎渡は、家では一度も見せたことのないような、とろけるような甘い笑みを浮かべていた。彼は指先で、陽菜の鼻先を愛おしげに突く。

「からかうなよ」水滴が滴るほどに優しい声だった。

「こいつは恥ずかしがり屋なんだ」

 その光景が、私の網膜を焼き尽くすようだった。

 先週、亮太が高熱を出した時、私は一人で救急救命室に一晩中詰めていた。山崎渡に電話をかけた時、彼は緊急会議中だと言った。

 後になって知ったことだが、その時、陽菜の機嫌が悪かったため、彼は一晩中川辺で彼女に付き合い、風に当たらせて慰めていたのだという。

 私がそのことを問い詰めた時、彼はただ冷ややかな目で私を一瞥し、心底うんざりした口調でこう言った。

「静留、あいつは俺の妹だぞ。お前はもっと寛容になれないのか? そんなに心が狭い女だったとはな」

 周囲の煽りはさらにヒートアップしていく。

「チューしろ! チューしろ! お前ら本当の兄妹みたいなもんだろ、何をビビってんだよ?」

 陽菜はよろめくふりをして、どさりと山崎渡の肩に重く寄りかかり、潤んだ瞳で彼を見上げた。

 山崎渡は口では「やめろ」と言いながらも、身を離そうとはしなかった。部屋中の喧騒の中、彼は微笑み、頭を下げて——陽菜の額に口づけを落とした。

 私の手から、力が抜けた。

 ケーキの箱が、重鈍な音を立てて床に落下した。

 全員が驚愕して振り返り、入り口に立つ私と、床に飛び散った無残なクリームの残骸を凝視する。

 山崎渡が眉をひそめてこちらを見た。彼の中にあった慈愛は瞬時に凍りつき、邪魔されたことへの不快感へと変わる。

 ——ここで何をしている?

 彼が最初に発したのは、弁明ではなく、尋問だった。

 事態を察した友人たちが、慌てて場を取り繕おうとする。

「うわ、静留ちゃん、誤解だよ! 二人はマジで仲がいいだけで、家族みたいなもんだからさ。俺たちが悪ノリさせただけで……」

 陽菜も立ち上がり、怯えた小鹿のように振る舞う。

「静留ちゃん、ごめんなさい……全部私が悪いの。今日は私の誕生日だから、お兄ちゃん……ううん、山崎さんがお祝いしてくれただけで。彼を責めないで……」

 私はただ、冷ややかな目で彼らを見つめ続けた。

 私の沈黙に耐えきれなくなったのか、陽菜が口走った。

「私と山崎さんは本当にただの友達なの……仲が良すぎて! 私、彼のお尻のあざがどんな形か知ってるくらいだし。もし私たちがそういう関係になるなら、とっくになってるよ……」

 私は口の端を吊り上げ、強張った引きつり笑いを浮かべた。

「そう」私は静かに、山崎渡の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「今の『親友』っていうのは、パンツを貸し借りするだけじゃなくて、お互いのお尻のあざまで確認し合う仲のことなのね?」

 山崎渡の顔色が変わった。彼は荒々しく立ち上がると、陽菜を背にかばうようにして立ちはだかった。

「静留、こいつの言うことを真に受けるな。酔ってるんだ」

 彼はそう言い捨てると、気まずさを誤魔化すようにポケットからベルベットの小箱を取り出し、乱暴に私へと突き出した。

「ほら、もういいだろ。やるよ、これ。お前へのプレゼントだ。ずっと欲しがってたマフラーだろ」

 私は唇を引き結んだ。手は出さなかった。

 代わりに、彼にとって非常に有益であろう事実を告げる。

「山崎渡。今日は、亮太の誕生日よ」

 山崎渡が固まった。彼の瞳が陰り、やがて苛立ちに染まると、その小箱を床に叩きつけた。

「忘れてただけだろ。それがどうした? たかがそれっぽっちのことで、ここまで追っかけてきて騒ぎ立てるのか?」

 彼は背を向け、陽菜の手を引いて出て行こうとした。この「狂った妻」にはもう付き合いきれないと言わんばかりに。

 その背中に向かって、私はかつてないほど穏やかな声で告げた。

「山崎渡、離婚しましょう」

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