第2章
山崎渡は足を止め、振り返った。その表情は苛立ちに歪んでいる。
「たかが誕生日パーティーに遅れたぐらいで、いちいち騒ぐなよ。静留、お前もいい加減大人になれ」
私は静かに首を横に振る。
「論点はそこじゃないわ」
過去の断片が、まるで砕け散ったガラスのように脳裏を駆け巡る――。
妊娠七ヶ月の時だ。産婦人科の待合室、仲睦まじく手を繋ぐ夫婦たちに囲まれ、私は一人、冷たいプラスチックの椅子に座っていた。電話の向こうから、山崎渡の声が響く。
『悪い、行けなくなった。陽菜のパニック発作が出たんだ。心療内科に連れて行かないと』
亮太が初めて四十度の高熱を出した時。ぐったりとした小さな体を抱きかかえ、救急外来で三時間も待ち続けた。山崎渡からのメッセージは短かった。
『空港にいる。陽菜が母親の遺産整理で大阪に行くから、送ってくる。明日帰る』
私は何も言わなかった。忍耐こそが愛だと勘違いしていたのだ。苦しみを飲み込むことこそが、成熟した大人の振る舞いだと信じ込んでいた。
だが、先ほど彼が陽菜の額に落としたキス――あまりにも自然で、一点の罪悪感もないその行為は、どんな平手打ちよりも強烈に私の目を覚まさせた。
「陽菜を送ってくる」
山崎渡は車のキーを掴むと、うんざりした様子で吐き捨てた。
「もういい加減にしてくれ、静留」
彼が陽菜の背中に優しく手を添え、ドアへとエスコートする姿を見つめる。去り際、陽菜がちらりと振り返った。厳密に言えば、その目は泣き腫らして赤かった。だがその口元は微かに吊り上がり、誰にも気づかれないような勝利の笑みを浮かべていた。
彼は私の警告を本気にしていなかった。それも無理はない。
私がただ感情的になっているだけだと思っているのだろう。だが、離婚届と財産分与の書類が、あのマホガニーのデスクに叩きつけられた時――彼は思い知るはずだ。私の沈黙は屈服ではなく、最後通牒だったのだと。
翌朝、昼食の準備をしていると、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには陽菜が立っていた。スーツケースのハンドルを強く握りしめ、目は赤く腫れている。
「静留さん……ごめんなさい……」
彼女は声を詰まらせた。
「ただ……どうしても辛くて。アパートに一人でいるのが……怖くて……」
そのあまりの厚顔無恥さに言葉を失っている隙に、山崎渡が私の横を大股で通り過ぎ、彼女の荷物を引き入れてしまった。
「どうして早く言わなかった? 俺が迎えに行ったのに」
私は腕を伸ばし、立ちはだかった。
「彼女を入れるわけにはいかない」
山崎渡は呆気にとられ、信じられないという顔をした。
「なんだって? 静留、一体どうしたんだよ」
「言ったはずよ」
私は一言一句、噛み含めるように告げた。
「彼女を一歩たりとも、この家に入れるつもりはないわ」
陽菜は唇を噛み、頬に涙を伝わせる。
「静留さん……嫌われているのはわかってます……でも、私、本当に行くところがなくて……」
「大阪には五つ星ホテルがいくらでもあるでしょう」
私は彼女を無視し、山崎渡を射抜くように見据えた。
「もし彼女をここに置くなら、もう後戻りはできない。私たちは終わりよ」
山崎渡の表情が瞬時に曇った。
「どうしてそこまで冷酷になれるんだ? 彼女がどれだけ惨めかわからないのか? 幼い頃に両親が離婚して、今は身寄りもないんだぞ――」
「それは私の問題じゃない。彼女がこの敷居を跨いだ瞬間、私たちの結婚生活は終わるわ」
山崎渡は一瞬沈黙し、やがて鼻で笑った。
「そんな脅しが通用するとでも? いいだろう。出ていきたければ、勝手に出ていけ」
彼は陽菜の手を引くと、私を押しのけるようにして玄関ホールへと入っていった。
「陽菜、心配いらない。俺がついている」
声のトーンが落ち、私には向けられたこともないような甘い響きを帯びていた。
「好きなだけ、ここにいていいんだ」
その時、亮太が階段を駆け下りてきた。彼女の姿を認めた瞬間、その瞳が輝く。
「陽菜おばさん!」
陽菜はすぐにしゃがみ込み、亮太の華奢な首筋に顔を埋めた。震える声は、しかし全員に聞こえるように計算されていた。
「亮太ちゃん……おばさんのこと嫌いじゃないのは、亮太ちゃんだけよ……怖かった……」
息子は彼女の胸に飛び込んだ。
「泣かないで、おばさん! おばさんは世界で一番綺麗で、優しい人だよ!」
「おばさんをいらないなんて言うやつは、バカだ!」
「僕、大好きだよ」
亮太は彼女を見上げ、真剣そのものの表情で言った。
「お母さんよりも、おばさんのほうがずっとお母さんみたいだ」
「ずっと一緒にいたい!」
その瞬間、頭から氷水を浴びせられたような衝撃が走り、骨の髄まで凍りついた。
陽菜は亮太をさらに強く抱きしめ、大粒の涙を流してみせる。
「でも、ママは私にいてほしくないみたいなの……私、行かなきゃ……」
「やだ! 行かないで!」
亮太は勢いよく振り返ると、私を力任せに突き飛ばした。
「悪いママ! どうしておばさんを追い出すの? ママなんて悪者だ!」
山崎渡はただ立っていた。止めることも、眉をひそめることさえしない。
彼は屈み込むと、亮太をひょいと抱き上げた。
「大丈夫だ。陽菜おばさんはここにいてくれるよ」
そして、泣きじゃくる陽菜に視線を向ける。
「遠慮するな。ここは俺の家だ。俺が決める」
目の前の光景を呆然と見つめる。夫が傍らで見守り、息子が別の女に縋り付いている。その姿はあまりにも調和が取れていた。まるで私が闖入者であり、彼らの幸福な家庭に土足で踏み込んだ恩知らずな侵入者であるかのように。
私はもう何も言わず、踵を返して二階へと上がった。荷造りをするために。
山崎渡は眉を寄せ、言い訳でもしようと後を追いかけようとしたが、陽菜がその腕を掴んで引き留めた。
「山崎渡さん、そっとしておいてあげて。頭を冷やす時間が必要よ」
スーツケースをまとめ終え、メインバスルームへ向かおうとした時だ。ドア越しに話し声が聞こえ、私は足を止めた。
「山崎渡さん……シャワー、浴びてくるね。少しだけ、一緒にいてくれない?」
陽菜の声は恥じらいを含みながらも、ねっとりとした親密な甘さを帯びていた。
「それはまずい……静留がまだいるんだぞ」
山崎渡の声には躊躇いがあったが、その拒絶はあまりにも弱々しい。
「だから何?」
陽菜がくすりと笑う。
「こういうの、初めてじゃないでしょ。今日はあの黒いレースのやつ、着けてきたの。それとも……見たくない?」
衣擦れの音が響き、重く、押し殺したような呻き声が漏れる。
続いて聞こえてきた言葉に、私の全身の血液が凍りついた。
「それに、亮太には私たちの血が流れてるんだもの。静留に関しては……可哀想な人。自分の子が生まれた時に死んじゃったこと、まだ知らないなんて」
「陽菜、その話はやめろ」
「どうして? これはあなたの優しさじゃない。子育てなんて大変なこと、私にはさせられないって。だからあの子を彼女に押し付けて、私を母親の重荷から守ってくれたんでしょう?」
「名前だってそう……亮太は、私のパパのミドルネームから取ったのよね。ねえ、山崎渡さん。彼女が私たちの息子を必死に育ててる姿を見るのって……すごく、ゾクゾクしない?」
手に持っていたシャツが、床に滑り落ちた。
世界が音を立てて崩壊し、耳鳴りだけが響く。息ができない。
これは単なる不貞ではない。私の魂そのものに対する虐殺だ。
七年間育ててきた息子。自分の命よりも大切に慈しんできた宝物――その存在すべてが、偽りだった。
私の母性も、犠牲も、死んだ我が子さえも……彼らにとっては、その病的で歪んだおままごとのための道具に過ぎなかったのだ。
音もなく涙が溢れ出し、私は悲鳴を殺すように口元を強く押さえた。
