第2章
空気が凍りついた。錯覚みたいに、耳の奥でさらさらと雪の降る音がした。
笠原灯は、篠原霧音の瞳に宿る決意を見て取る。体の横に落としていた手が、こらえるようにきゅっと握り込まれた。
どれほどの時間が流れたのか。彼は淡々と背を向ける。
「いい。後悔するな」
篠原霧音はその背中を見送り、強く瞬きをした。
10年前の笠原灯は、彼女を命みたいに大切にした。けれど10年後の笠原灯は、彼女を心底嫌っている。
結婚して5年。彼が家に戻ることは指折りで、帰ってきても客間で寝るだけ。彼女に触れることは一度もなかった。
5年、関係を戻そうと必死だった。けれど――。
夢を見ていただけだ。
この氷みたいに冷たい檻を見回し、篠原霧音はふっと笑った。笑っているうちに、涙がぽろりとこぼれ落ちる。
「ママ」
奈々が小さな手で目尻の涙をぬぐう。
「泣かないで。奈々、ずっとママと一緒だから」
喉の奥がきゅっと詰まった。
「うん……ママも、ずっと奈々と一緒」
娘を抱き上げ、階段を一段ずつ上がっていく。
奈々を寝かしつけてから、篠原霧音は客間の扉を押し開けた。
壁際の収納棚には、未開封のギフトボックスがぎっしりと積み上がっている。限定のドールに、いかにも高そうなブランド品。眩しいほど、何でも揃っていた。
笠原灯は、奈々への物だけは惜しまなかった。
けれど、感情は与えない。あたたかい言葉も、抱きしめる腕もない。ただ、冷たい物がこの部屋を埋め尽くすだけ。
――しかも、この部屋の中だけ。
主寝室に、彼女と奈々の物は絶対に置かせない。
彼も、周りの連中と同じだ。
篠原霧音は、死んで償うべきだと。
清水月の姉を壊し、清水月を壊し、そして笠原灯を一年、また一年と無理やり縛りつけた女――。
篠原霧音の喉が、音もなく上下した。機械みたいに足を踏み入れ、散りばめられた小さな石がきらきら光る箱に指先が触れる。
笠原灯が奈々に贈った、最初のワンピース。
いつか奈々がそれを着て、笠原灯に手を引かれ、笠原家の晩餐会へ堂々と出席する。
そして皆に宣言するのだ――この子は私たちの娘だと。
そんな夢を、何度も見た。
現実は、奈々が「パパ」と呼んでも、返事が返ってくるほうが少ない。
篠原霧音は睫毛を伏せ、棚の扉を閉めた。
部屋の隅のスーツケースを開き、荷造りを始める。
自分の荷物は少ない。惨めなほど少ない。
専業主婦として過ごした数年、彼女の世界は笠原灯と奈々だけになっていた。自分に何が必要かさえ、もう分からない。
奈々の物もわずかだ。よく着る古い服と、寝るときに抱くウサギのぬいぐるみ。
派手なドレスも宝飾も、一つも持っていかない。
スーツケースを引いて階下へ降りると、笠原灯はまたリビングのソファに座っていた。
気だるげな姿勢で、さっきの言い争いなど最初から無かったかのように。
篠原霧音は歩み寄り、離婚協議書をテーブルに置く。
「離婚協議書。もう署名した」
笠原灯の視線が、彼女の足元のスーツケースへ落ちる。咬筋がぴくりと動き、胸の内が焼けるようだった。
「そんなに急ぐか?」
口元が深く歪む。
「一晩も待てない? で、次の男はもう決まってるのか」
氷の錐で刺されたみたいに、細かい痛みが四肢の先まで広がった。
――これが、彼女が10年愛した男。
すべてを捧げても、彼の目には、いつだって彼女は汚い。
いつからだろう。
不正な手段で手に入れた新婚初夜からか。奈々が生まれて、彼の帰宅が減っていったころからか。
冷戦、糾弾、無視。
鈍い刃物で、少しずつ少しずつ、二人の愛を削り落として、形だけの殻が残った。
「笠原灯」
篠原霧音は力なく言った。
「私たち、もう話すことなんてない。これからは……互いに清算しましょう」
笠原灯が鼻で笑い、突然立ち上がる。高い影が圧みたいに覆いかぶさった。
「清算? どうやって清算する?」
一歩、また一歩。目尻が赤い。
「お前が俺に薬を盛ってベッドに潜り込んだ。子どもで脅して結婚させ、俺と月を引き裂いた。今さら『清算』の一言で、全部消せるとでも?」
言い終えるや否や、彼は乱暴に彼女の手首を掴んだ。瞳の奥に、どす黒い陰が幾重にも沈む。
「篠原霧音。必死で掴んだ結婚だ。こんなにあっさり手放せるのか?」
一言一言が刃になって、千切れかけた心をまた抉る。
至近距離の整った顔を見上げ、篠原霧音は惨めに笑った。
「そう。全部私がした。だから負けを認める。あなたを解放する。だから、私も解放して」
「奈々は?」
笠原灯が冷笑する。
「俺を縛る道具も、一緒に連れていくのか?」
「笠原灯」
篠原霧音の声が強くなる。
「私を侮辱するのはいい。でも奈々をそう言わないで。あの子は、あなたの娘よ」
「娘?」
笠原灯はその文字を噛みしめるように繰り返し、残酷なほど冷たい目をした。
「存在しちゃいけない間違いだ」
全身の血が、音を立てて冷えた。
篠原霧音は顔色を失い、立っているのがやっとだった。
――彼の中で、奈々は最初から最後まで、ただの「間違い」。
心臓が痙攣しそうなくらい痛い。穴だらけになって、そこから血が滲み出るみたいに。
目を強く閉じ、開いたときには冷たい決意だけが残っていた。
「分かった。その『間違い』は私が正す。今日から、奈々はあなたと無関係」
「無関係?」
笠原灯が大笑いする。まるで、世の中で一番滑稽な冗談でも聞いたみたいに。
「篠原霧音、お前に何ができる。どうやって養う? 縁を切った実家か? 社会から離れて数年の専業主婦か?」
嘲りは止まらない。
「親権争いになれば、お前に勝ち目はない。俺なら笠原家で最高の暮らしをさせられる。お前には何もやれない」
篠原霧音はスーツケースの取っ手を握りしめ、指の節が白くなる。
その通りだ。
笠原家を出れば、彼女は何もない。
けれど、残れば――。
心がここで死ぬ。
「旦那様……」
黙っていた家政婦の森田が堪えきれず、思わず口を挟む。
「奥様は、これまで本当に大変で……ですから、どうか……」
「お前の出る幕じゃない」
笠原灯が鋭い視線で刺す。
森田はびくりと震え、それでも篠原霧音に目を向けた。
「奥様、旦那様は本当は――」
「もう、言うことはない」
篠原霧音も遮り、まっすぐ笠原灯を見据える。
「あなたが外で何をしてるか、私が何も知らないと思ってる? 安心して。私、奈々とゴミ拾いして生きるほうがまし」
唇が、かすかに笑う。
「あなたのそばで、吐き気のする空気を吸うくらいなら」
彼女は上へ戻り、奈々を抱いて降りてくる。片手でスーツケースを引き、玄関へ向かった。
「明日、市役所で待ってる」
そう言い残し、扉を開けて外へ出た。
笠原灯は拳を固く握りしめ――そして、不意に力を抜く。
外はまだ秋雨だった。骨の芯まで冷たい。
篠原霧音は奈々を抱え、雨の中へ踏み出す。
本当は、聞きたかった。
どうして、あの日あんなに好きだと言った人が、簡単に愛さなくなれるのか。
会社が上場したら、彼はプロポーズしてくれると信じていた。
なのに来たのは、別れの言葉だった。
「他に好きな人ができた」
たったそれだけで、10年に終止符を打とうとした。
18から28までの10年。生活はもう一体だった。
手放すのは、身体の血を半分抜くようなもの。
――痛くても、もういらない。
