第29章

その言葉を聞いて、篠原霧音は思わず迷った。

たしかに、今野安哉という子は嫌いじゃない。賢くて繊細で、奈々とも相性がいい。

何より――会社の向かいに住めるなら、奈々を家にひとり残して出勤するたびに、胸をざわつかせなくて済む。

「……分かりました。ありがとうございます、今野社長。家賃は必ず期日どおりにお支払いします」

今野天にとっては、その程度の金額など痛くも痒くもないだろうに。

彼は気にした様子もなく頷くと、立ち上がってスーツの襟を整えた。

「住所は、こっちの秘書が君の携帯に送る」

言い切るや否や踵を返し、ドアへ向かう。――が、出口でふと足を止め、振り返って篠原霧音を一瞥した。

...

ログインして続きを読む