第4章

篠原霧音が、奈々の背中をとんとんと叩いて寝かしつけていた手が、ふっと止まった。

瞳の奥に、薄い霧が立ちのぼる。

奈々はまだ五歳。何も分からない。ただ、家族みんなで仲良く一緒にいたいだけ。

――なのに、その願いひとつすら、叶えてあげられない。

篠原霧音は鼻先を小さくすすり、涙がこぼれないよう必死に堪えた。

そしてまた、奈々の小さな背中を優しく叩く。

「そんなわけないよ。パパは奈々のこと、いちばん大好き。……ただね、パパは初めてパパになったから、どうやって奈々に『好き』を伝えたらいいか分からないだけ。奈々、パパのこと分かってあげられる?」

「うん。パパが初めてなら、奈々ゆるしてあげる」

「パパは自分のことが好き」と答えをもらえたことに安心したのか、奈々はもぞもぞと小さなお尻を動かし、篠原霧音にぎゅっと抱きついたまま眠りに落ちた。

心も身体も限界だった篠原霧音も、そのまま深く沈むように眠った。

――午前10時。

市役所の前。

笠原灯は、来ない。

篠原霧音はもう一度電話をかけたが、出ない。

代わりに背後から、時間が積み重なって骨に刻まれた声が飛んできた。

「篠原霧音。結婚を急いだのもお前、離婚を急いだのもお前。そんなに待てないのか?」

相変わらず冷たい。嘲りを含んだ言葉が、じくじくと胸に染みる。

離婚の最後くらい、まともに話す気はないのか。

……まあ、ずっとこうだった。

篠原霧音は余計なことを言わず、ただ告げる。

「遅い」

「『午前中に市役所で会う』としか言ってないだろ。お前が勝手に早く来ただけだ。俺が遅れて、泣いて『離婚しないで』って縋るのを期待してたのか?」

もう協議書にも署名した。ここまで来た。

それでも、まだ何を求める。

言い返すのも面倒で、篠原霧音は冷えた顔のまま認めた。

「そう。もう待てない」

笠原灯が、言葉を詰まらせた。

「手ぶらで出ていくくせに奈々は連れていく? まともな暮らしができるわけないだろ」

一歩近づき、低い声で刺す。

「俺が奈々のことを一言でも言うと噛みつくくせに、苦労はあいつに背負わせるのか」

想定どおりだ。

彼の中で自分は、無価値で、何もできない女。

胸の奥を強く握りつぶされるようで、息が詰まる。

篠原霧音は一度深く息を吸い、無理やり声を整えた。

「入ろう。これ以上、無駄にしないで」

「機会はやった。お前が大事にしなかっただけだ」

いつもそうだ。勝手に与えて、勝手に高みに立つ。

離婚間際まで、まだこんなふうに追い詰めてくる。

篠原霧音の目に、怒りが燃え上がった。

「笠原灯。私、あなたに嫁いだだけで、あなたの所有物になった覚えはない」

「あなたの会社がここまで来たのに、私がどれだけやったか――あなたがいちばん分かってるはず」

「あなたがくれる『機会』なんていらない。あなた自身も、もういらない!」

笠原灯の目に、驚きが走る。

この女に、こんな刃があったのか――そんな顔。

篠原霧音は冷たく一瞥して、先に歩き出した。

泣きついてくると思っていたのに、彼女は黙ったまま。

その沈黙が、なぜか笠原灯を苛立たせる。口から出る言葉はまた武器になった。

「のろのろ歩いて。時間稼ぎか? 俺に泣いて詫びさせたいのか?」

篠原霧音は答えず、ただ歩幅を速めた。

――本当に、離婚するのか。

この瞬間になっても、胸の奥にほんの少しだけ名残がある。

それでも分かっている。もう、戻れない。

沈黙の中、笠原灯のスマホが鳴った。

彼は足を止め、篠原霧音を一度見てから通話に出る。

画面に映った名前が一瞬見えた。清水月。

喉の奥が、ざらつく。

――自分の声を聞かれたくないのか。

離婚に応じたことを、きっと彼は月に話したのだろう。

自分という「浮気相手」が、ようやく席を空けるのだから。

距離は近く、周囲は静かだった。スピーカーじゃなくても、向こうの柔らかな泣き声が漏れてくる。

『灯……痛いの。来て……お願い』

持病がぶり返したのだろうか。

篠原霧音は何か言いかけて、結局、何も言えなかった。

今日は違う。さすがに離婚を先に――。

そんな期待を抱いてしまった自分を、心の中で嘲った、その直後。

「今すぐ行く」

笠原灯は即答した。通話を切るなり、篠原霧音に言い捨てる。

「月の具合が悪い。離婚は急がない」

そして、そのまま去っていった。

――離婚できなかった。

笠原灯の都合で。

篠原霧音は笑えない。

やっぱり、何より清水月が大事なのだ。

離婚しに来たのに、心は少しも軽くならなかった。

突きつけられた現実が、ただ重い。

篠原霧音は黙って市役所を後にした。

昼が近い。家には戻らず、彼女は市場へ向かった。

わいわいと騒がしい生活の匂いが、崩れた心をほんの少しだけ縫い止めてくれる。

家に戻ると、ドアを開けたのは奈々だった。

「ママ! 奈々、午前中ずっといい子だったよ~」

褒めてほしそうにぱちぱち瞬く大きな瞳が、縫い合わせたばかりの傷口に、そっと熱を灯す。

篠原霧音は買い物袋を置き、しゃがんで奈々を抱き上げた。頬と頬をすり合わせる。

「そうなの? じゃあ教えて。奈々、午前中なにしたの?」

奈々は指を折り、真剣に思い出し始める。

「牛乳、ぜんぶ飲んだ。アニメは2話だけでやめた。あとね、パズルずーっとやったの」

「えらい。じゃあごほうびに、ママがコーラ手羽作ってあげようか?」

「やった! ママのコーラ手羽がいっちばんおいしい!」

奈々がぱちぱちと手を叩いてはしゃぐ。

江口青の両親は不在で、篠原霧音は少しだけ息がしやすかった。

片腕に奈々を抱いたまま、もう片方の手で食材を提げ、台所へ入る。

忙しくする気配を察した奈々が、むにゅむにゅと身体をよじって降りた。

「奈々、ママのお手伝いする」

「じゃあ、このネギが奈々の最初の任務ね。できる?」

「できる!」

篠原霧音は笑った。慰めのような笑み。

――少なくとも、彼女には奈々がいる。

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