第5章
鍵ががちゃりと回り、続けてハイヒールを蹴り飛ばす音がした。
「もう疲れた! こんなクソ仕事、好きな人がやればいい!」
江口青がバッグをコートハンガーに掛けた途端、鼻先をくすぐる湯気と香りがふわりと届く。
「うわっ! コーラ手羽先!」
靴を履くのも忘れて、裸足のまま台所へ突進した。
篠原霧音が最後の青菜を器に盛った、その背中に――江口青がぎゅっと抱きつく。
顎を霧音の肩にちょこんと乗せたまま、手はちゃっかり皿の手羽先へ。
「手、洗ってきて」
霧音は身体をすっとひねって魔の手をかわし、料理を持って食卓へ向かった。
「りょーかい!」
食卓には湯気が立ちのぼり、ほかほかの熱が広がっていた。
江口青は遠慮ゼロで手羽先にかぶりつき、口いっぱいのままもごもご言う。
「霧音、あんたが男だったら、私ぜったい嫁に行ってたわ」
そしてすぐ、毒を吐くみたいに笑った。
「笠原灯って、ほんと見る目ないクソ野郎。こんな福、あいつ一生手にできない」
その名前に、霧音の箸が一瞬だけ止まった。けれど何事もなかったように、奈々の皿へおかずを取り分ける。
「おいしいなら、いっぱい食べて」
江口青は骨をぺっと皿の端に置き、ふっと動きをゆるめた。
霧音を見て、それからおとなしく食べている奈々を見て。笑顔が少しだけしぼむ。
「霧音……」
茶碗のごはんを箸でつつきながら、声が低くなる。
「うちの親の口の悪さ、知ってるでしょ。考えなしに言うからさ。もし嫌なこと言われたら……私が代わりに謝る」
霧音は落ち着いた手つきで江口青にスープをよそい、静かに首を振った。
「青、そんな言い方しないで。おじさんとおばさんが、奈々と一緒に泊めてくれた。それだけで十分すぎるくらい助かったの」
そして、自嘲気味に口角を上げる。
「心配するのも普通だよ。だって……今の私は、正直「厄介者」だもの」
「違う!」
江口青が箸をぱん、とテーブルに置いた。
「誰が厄介者だって? 笠原灯が起業した頃、あんたがどんだけ支えたと思ってんの。徹夜で企画直して、投資家口説いて、営業回って胃から血吐いて」
「奈々が生まれて、あんたが一歩引いただけ。能力なら私が一番知ってる!」
この世界で――霧音の「昔」を覚えているのは、たぶん江口青だけだ。
笠原灯が吐き捨てるように呼ぶ「役に立たない専業主婦」ではなく、必死に走っていた自分を。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む陽が、床に細長い光の帯を落とす。
江口青は早々に出勤していて、テーブルにはメモが残っていた。夜は会食があるから、夕飯は待たなくていい――そんな内容。
霧音はメモをたたみ、パソコンを開く。
求人サイトの画面が、妙に見慣れない。
大学を出てすぐ笠原灯と起業して、家庭に入ってからは書類なんて触る必要もなかった。経験がないのは事実だ。
江口青に聞きながら、ひとつひとつ項目を埋めていく。
氏名、年齢、学歴……。
十数社に連続で応募しても、大半は音沙汰なし。「既読」になったのは二社だけで、それもそこで止まった。
胸の奥に、じわじわ不安が染みてくる。
仕事が見つからなかったら、奈々をどうやって育てる?
――結局、笠原灯の言うとおり。自分は彼がいなきゃ生きていけないのか。
画面を見つめたまま固まっていると、ふわふわの小さな手が肩に触れた。
「ママ、つかれた?」
椅子の背に立つようにして、奈々がつま先を伸ばし、一生懸命に肩を揉んでくれる。
力は弱い。子猫がふみふみしているみたいな、頼りないリズム。
それなのに、張りつめていた神経がすとん、とほどけた。
「奈々がママをマッサージしてくれたら、ママは疲れないよ」
胸がきゅっと柔らかくなる。
「ありがとう。ママ、満タン復活!」
その瞬間、電話が鳴った。
見慣れない番号に、霧音は反射で通話ボタンを押す。
耳に飛び込んできたのは、きっちりとした女性の声だった。
「篠原様でしょうか。HY・テク人事部の者です。ご経歴、特にプロジェクト経験が弊社の要件に非常に合致しております。面接にお越しいただくお時間はございますか」
HY・テク。
業界でも上位に名前が出る大手だ。
霧音は込み上げる歓喜を喉の奥へ押し込み、できる限り落ち着いた声を作った。
「はい、お時間ございます。このような機会をいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます。面接のご案内をメールでお送りいたしますので、ご確認ください」
通話が切れた途端、霧音は思わず奈々を抱き上げ、その場でくるん、と一回転した。
「奈々! ママ、面接だって!」
「やったー! ママすごい!」
面接が何なのか分からなくても、ママが嬉しそうなら奈々も嬉しい。ぱっと花が咲くみたいな笑顔。
霧音は鼻歌まじりに台所へ行き、果物を切り始めた――そのとき、また着信音。
奈々が反射的に画面を見る。
表示は、たった三文字。笠原灯。
字は読めなくても、その番号がパパのものだと奈々は知っていた。
ぱっと目を輝かせ、小さな手でスマホを持ち上げる。
「パパ!」
澄んだ幼い声がリビングに響く。
リンゴを切っていた霧音の手が、びくん、と跳ねた。
振り向くと、奈々がいつの間にかスピーカーにして、期待いっぱいの顔で聞いている。
――けれど、返ってきたのは笠原灯の声じゃない。
女の、甘ったるく、息を含んだ喘ぎ声。
「灯、だめ……くすぐったい……」
清水月の声だった。
奈々は目をまんまるにする。
「だれ? パパは?」
向こうは子どもの声を聞いても止めなかった。むしろ、絡みつくみたいに濃くなる。
「灯、酔ってる……それ電話……動かないで……」
布が擦れる音。男の重い息。
霧音の頭の中が、ぶん、と鳴った。
血が一気に上がる。
吐き気。
胃の中がひっくり返るような、どうしようもない吐き気。
霧音は包丁を置くことすら忘れ、駆け寄ってスマホを奪い取った。
奈々がびくっとして霧音を見る。
「ママ、パパ寝てるの? なんか、おばさんが……」
霧音は奈々の耳を手で塞ぎ、スマホに向けて冷たく笑った。
「清水月。恥ってもの、ないの?」
向こうの声がぷつりと止まる。
数秒の間。
それから、気だるく、挑発するような声が返ってきた。
「霧音姉さん? ごめんなさいね。灯、酔っぱらって……私のこと離してくれなくて」
「灯に代わって」
霧音の声は氷みたいに冷たかった。
清水月はソファにもたれて眠り込んだ笠原灯を一瞥する。酒の匂いをまとい、寝ているのに眉間だけは無意識に寄っている。
唇をゆっくり吊り上げ、勝ち誇ったように言った。
「灯、今お風呂。お姉さん、用事なら私に言えば?」
霧音の胃が、またぞわりと波打った。
昔なら、きっと心が痛んだだろう。悲しくて、自分の何がいけなかったのかと責めただろう。
でも今、背後にいるのは――状況が分からず不安げな目をした奈々。
霧音の中に残ったのは、怒りだけだった。
母親として、子どもを汚させたくない怒り。
「清水月。あんたたちが勝手に遊ぶのは勝手。私はどうでもいい!」
霧音はスマホを握る指に力を込め、節が白くなる。一語一語、歯の隙間から絞り出した。
「でもね、こんな気持ち悪い音を――私の娘に聞かせるなんて、絶対に許さない」
「奈々はまだ5歳! 発情してるなら遠くでやって。子どもの耳を汚すな、クソ野郎ども!」
霧音は通話を切った。
胸が大きく上下し、息が乱れる。
スマホをソファの隅へ放り投げ、奈々を見た。
小さな身体は固まっている。大きな目には涙がいっぱい溜まっているのに、声は出せない。
心が、砕けそうだった。
霧音は深く息をしてしゃがみ込み、奈々を抱きしめる。
「怖くないよ。さっきのは、悪いおばさんが演技してただけ。パパはお仕事してて、電話に出られなかったの」
奈々は鼻をすん、と鳴らし、霧音のあたたかい首元に顔を埋めた。
「ママ……あのおばさんの声、へん。首しめられたアヒルみたい」
霧音はこらえきれず、ぷっと吹いた。
「そうだね。アヒルの真似してたんだよ」
