第7章

その平手が、振り下ろされることはなかった。

骨ばった、節のくっきりした手が横から伸び、木下課長の手首をぴたりと掴んで止めたのだ。

「HYの歓迎会って、ずいぶん変わってるんですね」

古川司真は手を離すと、嫌悪を隠さず掌をぱんぱんと払った。まるで汚れでも移ったかのように。

「口だけじゃ足りなくて、手まで出しますか」

木下課長はよろけて二歩ほど下がり、押さえた手首の痛みに顔を歪めて噛みつこうとした。だが相手を認めた瞬間、喉まで上がっていた罵声を無理やり飲み込む。

古川司真――。

数日前、経済誌のニュースに大きく載ったばかり。この街で、この顔を知らない者はいない。

清水月は状況を見て、ぱっと目の縁を赤くした。濡れた声を作って、怯えたように訴える。

「古川部長、誤解です……お姉さんが灯にしつこくて。会社までつけてきたうえに、企業秘密をこっそり録音して、木下課長を脅したんです。木下課長も、会社の利益を守ろうとして……つい、焦ってしまって……」

息をするみたいに自然に、汚水をかぶせてくる。

篠原霧音は、梨花帯雨そのものの顔を見つめ、胃の奥がむかりとせり上がった。

「企業秘密?」

霧音はスマホを掲げる。画面は点灯したまま。声だけは澄んで、ぶれなかった。

「清水さんがそう言うなら、みんなで聞きましょう。これが『秘密』だって言うなら、いったい何が入ってるのか」

木下課長の顔色がさっと青ざめ、奪い取ろうと飛びかかる。

「流すな! それは会社の――」

古川司真が一歩、横に出た。長身が壁のように霧音の前へ立ち、木下課長を遮る。

霧音はそのまま、再生ボタンを押した。

スピーカーから流れ出したのは、猫なで声で媚びる木下課長の声。廊下にやけに響き、耳障りなくらい生々しい。

『もしもし? 清水さんですか? あの篠原霧音、さっき来ましたよ……ご安心ください、きっちり辱めてやりました! あんな倫理もクソもないクズ、うちのHYに入る資格なんて――』

短い録音だった。だが、十分すぎるほど致命的。

野次馬だった社員たちの目が、すっと変わる。役員連中の顔も引きつった。面接に来た人間へデマを流し、辱める。そんな文化が外へ漏れたら、HYの看板はどうなる。

霧音はスマホをしまい、古川司真の肩越しに、清水月をまっすぐ射抜いた。

「これが、あなたの言う企業秘密?」

一拍、置く。

「HYの『秘密』って、笠原社長の浮気相手に協力して、私――本妻を、侮辱するやり方のこと?」

ざわっ、と空気が弾けた。

一斉に集まる視線。ひそひそと刺さる声。清水月は顔を強張らせ、涙をさらに落としながら笠原灯の袖へ縋りつく。指先は白い。

「灯……違うの。私はただ、お姉さんが騒ぎを起こしたらあなたが困ると思って、木下課長に一言伝えただけで……そんなふうに受け取られるなんて思わなかった……」

木下課長は目を見開き、信じられないといった顔で清水月を見た。

――電話では、お前が指示していたくせに。

「それに……」

清水月は鼻をすすり、怯えた子みたいに霧音を見る。

「お姉さん、最初に灯と結婚できたのだって……あなたがああいう手を使ったからでしょう? 私たち、引き裂かれて……。灯はやっと離婚を決めたのに、どうしてまだ放してくれないの? ここまで来て騒ぐなんて……私はあなたが私を恨んでるのも分かる。でも、気持ちって、無理にどうこうできるものじゃないの……」

上手い。自分の汚れは落とし、霧音を「手段でのし上がった側」「本当の意味での邪魔者」に仕立てる。

周囲の空気が、あっという間にひっくり返った。

「なるほどね。笠原社長が、あんな女選ぶわけないと思った」

「でき婚で縛ったのか。そりゃ捨てられる」

「清楚ぶってるけど、やることえげつないな」

笠原灯は、飛び交う言葉を聞きながら眉間に皺を寄せた。苛立ちが滲む――けれど、止めようとはしない。

霧音はその場で動けず、悪意の波を全身で浴びた。拳を握りしめると、指先が痺れるほど震える。

そのとき、澄んだ声が雑音を裂いた。

古川司真が鼻で笑い、袖口をさらりと整える。口調は気だるげなのに、言葉だけが鋭い。

「清水さん、でしたっけ。笠原灯が同意しないまま、霧音さん一人で結婚できるんですか?」

「それに、仮に無理やりだったとして。五年も一緒に暮らして、子どもまでいる。それ全部、笠原社長が『脅されてやった』って言いたいんです?」

「嘘をつく前に、少しは筋を考えたらどうです」

急所を、一本で貫いた。

ひそひそ声が、す、と止む。

社会人を何年もやっていれば分かる。さっきまでの流れが、誰かの手で作られたものだと。

清水月の顔が強張る。想定外の横槍に、言葉が詰まった。助けを求めるように笠原灯を見る。

「灯、私……」

「――もういい!」

笠原灯が低く吠えた。顔は鍋底みたいに黒い。

「これ以上、恥をさらす気か」

最後に霧音を一瞥する。その眼差しは複雑で、何か言いたげで――しかし結局、踵を返して大股で去っていく。

「灯! 待って!」

清水月は霧音を怨むように睨みつけると、ハイヒールを鳴らして追いかけた。

木下補佐は床にへたり込み、完全に後ろ盾を失ったところを、すぐ警備部に連れていかれる。

彼女のこの一件が、自分のキャリアを叩き潰した。

人が散り、廊下に静けさが戻る。

霧音は、ふっと力を抜かれたみたいに肩を落とし、古川司真へ向き直った。

「今日は……助けてくれて、ありがとう」

彼がいなければ、無傷では済まなかった。

「大したことじゃない」

古川司真は先ほどの刃をしまい、柔らかな表情に戻っていた。

ポケットから名刺を一枚取り出し、霧音へ差し出す。口調はあくまで軽い。

「俺、この会社にいるんで。もしまた仕事探すなら、ここに連絡して。……まあ、コネは使えないけど。面接は実力でどうぞ」

霧音は名刺を受け取り、胸の奥がじんと温かくなった。

「ありがとうございます、先輩」

古川司真が小さく笑う。

「霧音さん、電話番号は?」

霧音は迷わず伝えた。

番号を交換し、霧音は礼をしてHYを後にした。

まっすぐ帰らず、近くの市場へ寄って食材を買う。バスに揺られること一時間。ようやく江口青の借りている団地に着いた。

玄関の前で鍵を取り出しかけた、そのとき。

室内から言い争う声が聞こえて、霧音の手が止まった。

「だから言ったじゃない、住まわせるんじゃなかったって! ほら見なさい、もう何日よ? こっちの食いもん飲みもん、全部タダで、しかも子ども付き!」

甲高く意地の悪い、中年女の声。

続いて、男の冷えた嘲笑。

「元々、男に飼われてただろ。捨てられたら誰が引き取るんだよ。どうせうちに寄生する気なんだ。『奈々』とかいうガキだって、本当に笠原社長の子なら追い出されるわけないだろ」

「どこの隠し子かも分からん」

霧音は鍵を握り潰すほど力を込めた。胸を乱暴に掴まれたみたいに息が詰まる。

自分を何と言われてもいい。だが奈々だけは――。

「篠原霧音も馬鹿だよな。ちょっと賢けりゃ何千万かふんだくって、それで終わりにできたのに。今さらうちで飯たかりって、頭おかしいんじゃないの」

「――やめて!」

突然、女の声が割って入る。室内の止まらない悪口を、きっぱり断ち切った。

前のチャプター
次のチャプター