第3章
冷えきった警告が、二谷夜子の胸にずしりと落ちた。指先まで、じわりと冷たくなる。
藤原右京が、口先だけの脅しを吐く男ではないことくらい、彼女にもわかっていた。
あの目の底に沈む寒気。言葉の端ににじむ血の匂い。目の前の男がどれほど危険で、どれほど冷酷かを、それだけで十分すぎるほど思い知らされる。
骨まで砕いて、灰にする――。
どくん、と心臓が肋骨を叩く。背骨をなぞるように、ぞわりと冷たいものが駆け上がった。
この男は、言ったことを本当にやる。きっと、一言残らず。
けれど、怯みはほんの一瞬だった。
その次の瞬間、胸の奥からせり上がってきたのは、もっと深い覚悟だった。
もう、後戻りはできない。
この道に足を踏み入れた時点で、引き返す資格なんて、とっくに失っている。
江原和直も、そして目の前にいる危険な藤原右京も――彼女が落とさなければならない砦だ。
ここで退けば、すべてが水の泡になる。それどころか――地獄の底まで堕ちるだけ。
二谷夜子はゆっくりと振り返った。薄暗い光の中で、その艶やかな桃花眼が複雑に揺れる。驚き。恐れ。あとは、鍋を叩き割るような捨て身の決意。
まるで今の警告など聞こえなかったみたいに――いや、わざと踏みつけたみたいに。
「藤原様……夜子、何のことだかわかりません……」
かすかに震える声。それでも瞳の奥には、男を絡め取るような媚がたっぷりと滲んでいる。細い脚が、そっと藤原右京の脚を撫でた。薄い布越しに、熱がじわりと伝わっていく。
「こんなに遅いし、外も真っ暗ですもの。上まで送ってくださらない?」
赤い唇がゆっくり開く。甘く濃い吐息が、羽みたいに藤原右京の耳朶をかすめ、首筋へと落ちた。
その瞬間、藤原右京の目の色がふっと沈んだ。
さっき彼女を脅した時よりも、なお深く。底が見えないほどに暗く。
彼は感じ取っていた。彼女の身体に走るかすかな震えを。それはただの誘惑じゃない。恐怖を呑み込んだまま前へ出る、無謀な勇気――そんなものを孕んでいた。
生まれて初めて味わうような、苛烈な熱が体内を駆け巡る。火がついたみたいに一気に広がり、四肢の先まで焼き尽くしていく。自分が誇ってきた自制心を、今にも突き破りそうな勢いで。
知らない感覚だった。凶暴で、荒々しくて、腹立たしいほど制御が利かない。
藤原右京はもともと女に淡白だった。いや、淡白というより冷えきっている。近づいてくる女はすべて等しく煩わしく、時には生理的な嫌悪すら覚えるほどだ。
彼の世界にあるのは、冷たい規律と完璧な支配だけ。情欲なんてものは、一度だって本物の火になったことがない。
なのに今は違う。
か弱そうな顔をして、腹の底に企みを隠したこの女。矛盾だらけで、それなのにひどく致命的な匂いを放つ二谷夜子を前にして、三十年眠り続けていた欲が、一瞬で牙を剥いた。
藤原右京は目を細めた。瞳の底を危うい光がかすめる。伸ばした手で、彼女の悪戯めいた指先を捕まえ、強く握り締めた。
煮え立つような衝動をねじ伏せるように、低く掠れた声で問う。
「……本気か」
その声音に混じったわずかな変化を、二谷夜子は聞き逃さなかった。胸を占めていた恐怖が、一瞬で別の熱に塗り替わる。狂気じみた高揚。ぞくりとする歓喜。
――この男、まるで無反応というわけじゃない。
二谷夜子は眉尻をふわりと上げ、さらに甘く囁いた。
「ええ……藤原様、夜子のそばにいてくださいます? 夜子、本当に怖いんです……」
声はますます艶を帯びる。わざと胸を張り、豊かな膨らみを彼の腕へと押しつけた。
もともと大きく開いた胸元が、その動きでさらに緩む。なめらかな乳房の白さが、今にもこぼれ落ちそうなくらい露わになった。
空調のぬるい風が流れた。
藤原右京は、全身の血が一か所へ集中していくのをはっきりと感じた。大きな手が彼女の丸い肩を掴む。喉の奥から絞り出すような声。
「……送る」
その仕草には、あからさまな拒絶があった。どこか追い詰められたような、わずかな狼狽さえ。
けれど、二谷夜子にははっきりわかった。
――この男は、もう揺れている。
そう思った途端、心臓の先まで震えた。興奮と、後戻りできない場所まで踏み込んだ者だけが知る、ひりつくような歓喜で。
言い終えるなり、藤原右京はほとんど逃げるように先に車を降りた。無駄のない長い脚で、足早にエントランスへ向かう。
二谷夜子は、その高い背中を見つめた。余裕の笑みが唇に滲む。
車のドアを押し開け、彼女もあとを追った。
玄関に入った次の瞬間、二谷夜子の身体は勢いよく扉へ押しつけられた。
藤原右京の逞しい身体が、容赦なく迫る。扉板と彼の胸とのあいだに閉じ込められ、逃げ場はない。
豊かな胸が圧迫されて大きく上下し、そのまま硬い胸板にぴたりと押し当てられる。
二谷夜子の鼓動は一気に速まった。整った頬には、欲情を帯びた紅がさしている。潤んだ瞳は熱にほどけ、わずかに開いた唇からは骨まで痺れさせるような色気がこぼれていた。
浅い呼吸を繰り返しながら、すぐ目の前の男を見上げる。
藤原右京の顔立ちは鋭かった。通った鼻梁。真一文字に結ばれた唇。全身からにじむ、剥き出しの侵略性。
深い双眸には、複雑な感情が激しく渦巻いている。
こんなふうに媚びを売る女は、本来なら一番嫌いなはずだった。なのに、彼女にだけはどうにも歯止めが利かない。
その事実が、何より癪に障る。
二谷夜子は思わず喉を鳴らした。
自分から煽ったくせに、こうして密着されると息が詰まりそうになる。あまりにも強い圧に、呼吸ひとつ満足にできない。
それでも、目的を思い出す。
二谷夜子はそっと息を吸い込み、勇気を振り絞って背伸びをした。そして、自分から藤原右京の薄い唇へ口づける。
その瞬間、藤原右京の身体がびくりと強張った。喉仏がごくりと上下する。瞳の中では嫌悪と葛藤がせめぎ合っていた。
けれど、ほとんど同時に本能が先に動く。
片手で折れそうな腰をぐっと抱き寄せ、もう片方の大きな手で後頭部を押さえ込む。罰を与えるみたいな乱暴さで唇を割り、たちまち主導権を奪い返した。
はじめは荒い。責め立てるような口づけだった。
なのに、柔らかな唇と舌に触れた途端、その乱暴さが少しずつ変質していく。深く味わうように、執拗に絡め取り、吸い上げる。
唇が、舌が、離れない。
室内には、濡れた吐息と、絡み合う水音だけが熱っぽく響いていた。
二谷夜子の身体は、もうとろとろに溶けていた。力が抜け、彼にしなだれかかるしかない。
やがて藤原右京がふいに唇を放し、ようやく彼女は大きく息を吸った。脚はすっかり痺れ、ひとりでは立っていられそうにない。
藤原右京は見下ろした。深い水底みたいに昏い目で。
唇の端に浮かぶのは、冷えた嘲り。
「大した度胸だな。身体を武器にして火遊びか。焼ける気分は、どうだ」
二谷夜子は彼を見上げた。瞳を揺らし、媚びるように微笑む。
小さく首を傾げ、甘く息を弾ませた。
「ふふ……すごく、ぞくぞくします。ねえ、藤原様~」
語尾をわざと長く、やわらかく引く。まるで見えない鉤を投げるみたいに。彼の冷えた視線を、挑発するように正面から受け止めた。
そうしてから、薄く赤く腫れた自分の唇を、桃色の舌先でゆっくり舐める。さっきの口づけを味わい直すように、わざとらしく。
藤原右京の瞳が、さらに深く沈んだ。
声は冷たい。けれど、その奥には今にも噴き出しそうな危うさが押し込められている。
「お前が何を企んでいようと――もう遅い。今さら、逃がす気はない」
その宣告と同時に、彼の手が後ろ首を掴んだ。ぐいと自分の胸元へ引き寄せ、そのまま再び唇を塞ぐ。
「……んっ」
開かされる唇は、ようやく綻んだ花弁みたいに震えていた。その奥はやわらかく、甘い。
深く吸われ、舌を絡め取られるたび、藤原右京の背筋にぞくりと痺れが走る。満ちる香りが舌先からじわじわと広がり、もっと奥まで侵したくなる。
深い。あまりにも深い。
二谷夜子は、自分の魂まで吸い上げられそうな錯覚に襲われた。
身長差のせいで、後ろ首を押さえられた彼女はただ仰向くしかない。口を大きく開かされ、舌を貪られ、鼻先までぴたりと触れ合う。
激しすぎる口づけに頭の中がぐらぐらと揺れた。膝から力が抜け、何度も崩れ落ちそうになる。
そのたびに藤原右京が抱き起こす。
大きな手が背中へ回り、ドレスのファスナーを一気に下ろした。できた隙間からするりと滑り込み、素肌をなぞる。
男の掌は熱く、乾いていた。指先に薄くできた硬い皮膚が、背中を這うたびにぞくぞくと震えが走る。
触れられるたび、びりっと電流でも流されたみたいに身体が跳ねた。鼻にかかった甘い吐息が、か細い呻きとなって漏れ、熱が下腹へと集まっていく。
もう、ぐずぐずだった。
暗がりの中で、衣擦れの音がした。ドレスが床へ落ちる。続いて、下着も。
胸を掌に包み込まれた瞬間、二谷夜子の喉から堪えきれない声がこぼれた。
熱い。熱くてたまらない。
揉みしだかれるたび、全身が溶けてしまいそうになる。
藤原右京の唇が首筋を伝って下りていく。鎖骨を舐め、さらにその先へ。
そして、尖った蕾をひとつ、深く口に含んだ。
