第6章
藤原右京は通話を切ると、スマホを脇へ放り投げた。
知りたい。
この七年で――彼女が、いったい何をくぐってきたのか。
怯えていたあの子鹿が、どうやって今みたいに、牙を隠しもしない棘薔薇へと変わったのか。
爪は鋭く、こちらの縄張りへ自分から踏み込んでくる、厄介な女。
二谷夜子……林原茜……。
自分から差し出してきた以上、この遊びのルールは俺が決める。
******
数日後、H市医科大学――。
江原和直からメッセージが届いた。
【夜子、学校にいる?】
二谷夜子は画面をちらりと見て、指先で軽く叩く。
【うん】
送信してから、少し素っ気ないかも……と思い、少し考えて、甘えたスタンプをひとつ追加した。
すぐに、江原和直からニヤリ顔が返ってくる。
【サプライズ用意したよ】
――また何を企んでるの。
夜子が内心で身構えた、その瞬間。
教壇へ、スーツ姿の男が二人、落ち着いた足取りで上がっていくのが見えた。
今日の著名人講座に招かれたのは、藤原グループ執行社長・藤原右京、そして江原グループ管理部部長・江原和直。
夜子は反射的に、壇上の高い席に座る男へ視線を投げた。
矜持と冷気を纏った、あの藤原右京へ。
昨夜、散々挑発した挙げ句――あの男は、ためらいもなくドアを叩きつけて出ていった。容赦なんて欠片もない。
藤原右京は、夜子の熱を含んだ視線に気づいたのか、黒い瞳をわずかに細め、彼女のいる位置を一瞬で捉えた。
その視線を受けた夜子は、唇の端をゆっくり吊り上げる。
細く長い人差し指と中指を赤い唇にそっと当て――ふっと、いたずらっぽく投げキスを送った。
藤原右京は、その露骨な誘いを見ていながら、表情ひとつ変えない。
まるで知らない相手でも見るみたいに視線を引き、机上の大学案内へと落とした。
無視。徹底的な無視。
夜子は笑顔を貼りつけたまま、胸の内で毒づく。
(このクソ男……抱いたら終わり、って顔しやがって)
校長が前へ出て、二人の経歴を学生へ紹介していく。
先に話し始めたのは江原和直だった。
マイクを持ち、背筋をぴんと伸ばして立つと、教室中をせわしなく見回す。
夜子と視線がぶつかった。
心臓がひやりとする。――平静、平静。何ひとつ悟られちゃだめ。
江原和直は夜子を見つけた瞬間、ぱっと晴れたように笑った。
そして慣れた口調で、台本をなぞる。
「みんな、こんにちは。江原グループ行政総監の江原和直です。本日はこうして――」
藤原グループは幅広い事業を抱えるが、中でも医療は中核だ。
傘下の製薬会社と私立病院は世界各地に展開し、最先端の医療技術と人材を武器に、業界で無視できない地位を築いている。独占と言われても不思議じゃない。
一方、江原グループは元々、名もない小さな企業だった。
だが江原家が藤原家と縁組みして以降、藤原の潤沢な資本とネットワークを背に、今ではそれなりの規模を持つ企業グループへと成長している。
……。
「以上です。ご清聴ありがとうございました」
江原和直は無事に原稿を読み切り、壇上を降りた。
席に戻ってからも、ちらちらと人波の中の夜子を探している。
夜子はそれに気づいていながら、完璧に演じた。
両手を強く叩き、満面の笑みで拍手する。
次は、藤原右京。
長い脚で淡々と壇上へ上がり、マイクの前に立つ。
「優れた外科医に必要な資質は、善良さ、勇気、そして向上心――」
声音は硬質で、芯が通っている。揺るぎない圧。
学生たちの視線が熱を帯び、憧れの色が浮かんだ。
――ただ一人、二谷夜子を除いて。
夜子はその『美辞麗句』が、白々しくて仕方なかった。
権力の頂に立つ連中が、善良だの何だのと語る。笑わせないで。
そういう男ほど、仮面が上手い。
腹の底が冷たくても、上品に微笑んで賞賛をさらっていく。
藤原右京が視線を巡らせ、夜子の方を掠めた。
彼女が俯いているのを見て、眉がわずかに寄る。薄い唇が、きゅっと結ばれた。
演説が終わり、藤原右京は優雅に一礼した。
桁違いの資産を持つ男が、あそこまで丁寧に頭を下げるだけで――教室の空気は一気に掴まれる。
ぱん、ぱん、ぱん……。
雷みたいな拍手。立ち上がって喝采する学生までいる。
校長は嬉しそうに前へ出た。
「皆さん、藤原さんにこれだけ熱意があるなら、藤原さんにいくつか質問してもらいましょう。よろしいですか?」
藤原右京は冷たく断るかと思ったのに、淡々と答える。
「構いません」
その瞬間、女子学生がどっと沸いた。手が一斉に上がる。
校長が一人を指名すると、彼女は勢いよく立ち上がった。
「藤原さん、ご結婚はされていますか?」
教室の空気が微妙に揺れた。
真面目な講座が、一瞬でゴシップの場に変わる。好奇の匂いが濃くなる。
校長は内心で焦った。
プライベートに踏み込みすぎだ。答えないだろう――そう思ったのに。
藤原右京は平然と返す。
「未婚です」
今度は、どこかから大胆な声が飛んだ。
「藤原さん、彼女はいますか?」
藤原右京は無表情のままマイクを上げ、簡潔に言う。
「いました。ですが、つい最近別れました」
夜子はわずかに目を見開いた。
こんな場で、藤原右京の恋愛事情を聞くことになるなんて。
年齢的に彼女がいたのは当たり前。
なのに――胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
質問は止まらない。
「じゃあ藤原さん、近いうちに新しい彼女を作るご予定は?」
藤原右京の視線がゆっくり遠くへ流れる。
その先が、夜子の方角と重なった気がした。
夜子はその微かな気配に気づき、なぜか答えを待ってしまう。
藤原右京は少し顎を上げ、どこか意味ありげに言った。
「ありません。七年の想いは、そう簡単に手放せない」
夜子の笑みが、ぴしりと固まった。
七年――?
さらりと言ったのに、その言葉には別の刃が隠れている気がしてならない。
その後は江原和直の質疑応答に移り、藤原右京は席を立って教室を出ていった。
夜子が逃すわけがない。
彼女も席を立ち、教室の外へ出る。
廊下へ出た途端、正面から藤原右京と鉢合わせた。
藤原右京は夜子を見ても、声をかける気配すらない。
そのまま通り過ぎようとする。
夜子は素早く前へ出て、腕を伸ばし、行く手を塞いだ。
藤原右京は足を止め、見下ろすように目を落とす。
氷みたいに冷たい視線。
「何か用か」
夜子は怯むどころか、一歩踏み込み――そのまま彼を非常階段の踊り場へ押し込んだ。
甘くとろける声で。
「藤原様ぁ……会いたかったの」
藤原右京の眉が、ほんのわずかに動く。
だが突き放しはしない。代わりに、骨ばった長い指で彼女の顎を軽く摘まんだ。
「よくそんな面の皮で言えるな」
藤原右京は背が高い。
夜子は彼の前だと頭ひとつ以上低く、見上げる形になる。
彼が目を伏せるたび、冷えた距離感が増す。
(黙ってたら、ほんと高嶺の花なのに)
(口を開くと、妙に悪い……そのギャップが、たまらない)
夜子は息を整え、もっと無垢に、もっと甘く。
「本当だよ。ほんとに、会いたかったんだもん」
藤原右京は口元に冷笑を刻み、顎を掴む指をゆっくり滑らせた。
薄い茧のある指腹が、首筋をなぞり、鎖骨を辿る。
じわ、と電流みたいな熱が走る。
そして最後に――豊かな胸の縁で止まった。
意地の悪さそのままに、敏感な先端をぐっと押し揉む。
暗い目で覗き込みながら、低く笑う。
「……へえ。俺が恋しいのか。それとも、俺と寝たいだけか」
