第4章
青木日成が恋人の存在を公表さえすれば、私のことさっぱり忘れてくれる——そう思っていた。
だが現実は違った。ここ三日間、彼は執拗に私へ付きまとっている。
番号をブロックしても、すぐに新しい番号からメッセージが届いた。会社ビルの下にも常に彼の車が停まっていて、私は裏口から出入りするしかない。
どうあがいても、彼から逃れることはできなかった。
午前二時。けたたましいチャイムの音に、私は叩き起こされた。
寝ぼけ眼をこすりながら玄関へ向かい、ドアスコープから外を覗いた。その瞬間、眠気は一気に吹き飛んだ。そこには、足元をふらつかせた青木日成が立っていたのだ。ひどい酒臭さが漂ってきそうなほど泥酔している。
私は震える手でスマートフォンを握りしめ、城崎霖へメッセージを打った。
『お兄さん、怖い。家の前に青木日成がいるの』
「灯……いるのはわかってるんだよ」
呂律の回らない、泣き混じりの声。
「開けてくれよ……ちゃんと話をしよう」
私は息を潜める。彼が諦めて帰ってくれることを祈りながら。
だが、彼は激しくドアを叩き、音は次第に大きくなっていく。
「灯! 開けてくれ! 俺が悪かった!」
静まり返った夜の廊下に、彼の絶叫が響き渡っていた。
「本当に好きなのはお前なんだよ……俺を見捨てないでくれ……」
近所の住人がドアを開けて様子をうかがい、騒音に対する不満の声も聞こえてきた。これ以上迷惑はかけられない。私は説得して帰らせようと、恐る恐るドアを開けた。
鍵開けた瞬間、青木日成はよろめきながら強引に押し入ってきた。アルコールと汗の臭気が、瞬く間に玄関を埋め尽くした。
「やっぱり、俺のことを心配してくれてたんだね」
彼は私を抱きすくめようと腕を伸ばしてきた。
「灯、やり直そう……天雨とは別れるから……」
「触らないで!」
私は全力で彼を突き飛ばした。だが、男の力には敵わない。彼はすぐさま距離を詰め、私に体を押し付けてくる。
「青木日成、出ていって!」
「嫌だ! 絶対に出ていかない!」
彼に強く抱きしめられた。
「やり直すって言うまで離さない! 灯、愛してるんだ、離れないで……」
濃厚な酒の臭いに吐き気を催しながら、私は必死にその腕から抜け出そうともがく。しかし、泥酔しているとはいえ男の腕力は凄まじく、びくともしない。
「離して!」
声が涙で震えている。
「お願いだから離して!」
「離さない……絶対に……」
彼は強引に唇を重ねようとしてくる。
「灯、お前は俺のものだ……永遠に、俺だけのものなんだ……」
唇が触れそうになったその時、私は全身の力を込めて引っぱたいた。
パチンッ!
乾いた音が、静かな部屋に鋭く響いた。
打たれた衝撃で青木日成は呆然とし、拘束が緩んだ。
「殴ったな?」
赤く腫れ上がった頬を押さえながら、彼の目にどす黒い怒りの色が宿る。
「桐谷灯、よくも俺を殴ったな?」
「出ていって!」
私は震える指でドアを指し示した。
「今すぐ出ていって!」
「お前……」
青木日成の瞳に、理性を失った危険な光が宿る。
「いいだろう……そこまで嫌なら、俺にも考えがある」
突然、彼が獣のように飛びかかってきた。悲鳴を上げて後ずさった私はソファに足を取られて転倒してしまい、その隙を逃さずに彼は私の上に覆いかぶさってきた。その目は狂気と情欲で濁っている。
「青木日成! 頭がおかしいの!? 離して!」
「どうせ俺から離れるつもりなんだろ? だったら最後に一度だけ抱かせろよ!」
バリッ、と私のパジャマが引き裂かれる。
「そうすれば、お前は一生俺を忘れられないだろ!」
恐怖が津波のように押し寄せ、私を飲み込んだ。まさか彼がここまで落ちぶれるとは。酒のせいで完全に狂っていた。
「助けて!」
ありったけの声で叫んだ。
「誰か! 助けて!」
絶望に視界が暗くなりかけたその時——ドアが激しい音を立てて弾け飛んだ。
玄関に城崎霖が立っていた。その瞳には、すべてを焼き尽くすほどの業火が燃え盛っていた。
「このクズがッ!」
彼は疾風のように駆け寄って、青木日成を蹴り飛ばした。さらに襟首を掴んで引きずり起こし、容赦ない拳の雨を降らせた。一撃一撃が、殺意を帯びていた。
「ぶっ殺してやる!」
地獄の底から響くような、凄惨な声。
「よくも彼女に触れたな! 殺してやる!」
「お兄さん!」
私は這うようにして起き上がり、彼の腰に抱きついた。
「もういい! もうやめて!」
私の体温を感じて、城崎霖の拳が止まった。彼は荒い息を吐きながら、床で虫の息となっている青木日成を見下ろして、その殺意はまだ消えていない。
「失せろ」
氷点下の冷徹さを含んだ声だった。
「二度と彼女の前に姿を現すな。次は本当に殺すぞ」
青木日成は血まみれの顔で這いつくばりながら、どうにか立ち上がった。
それでもなお、彼は捨て台詞を吐いた。
「城崎……お前だって、俺と大差ないくせに……」
「失せろと言ったんだ!」
城崎霖が近くの花瓶を掴み上げると、青木日成は這うようにしてアパートから逃げ出した。
ドアが閉まり、リビングに静寂が戻る。緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込んだ。恐怖の余韻で震えが止まらず、涙が溢れていた。
「灯……」
城崎霖が優しく私の名を呼び、壊れ物を扱うように私を抱き上げた。
「もう大丈夫だ……お兄さんはここにいる」
彼の腕の中は温かく、懐かしいミントの香りがした。彼の胸に顔を埋め、力強い心音を聞きながらしがみついた。
「ごめん……遅くなって、本当にごめん……」
彼が私の背中をさすりながら、悔恨と慈しみの混じった声で言った。
「俺がちゃんと、お前を守っていれば……」
「お兄さんのせいじゃない……」
私は彼の胸の中でしゃくり上げた。
「お兄さんが来てくれなかったら……私、どうなっていたか……」
「そんなことはさせない」
抱きしめる腕の力が強い。
「誰にもお前を傷つけさせはしない。絶対にだ」
私たちはしばらくの間、そうして抱き合っていた。
やがて私の呼吸が落ち着くと、城崎霖は体を離し、怪我がないか確認し始めた。
「痛むところはないか?」
引き裂かれたパジャマの襟元に触れる彼の手は、痛ましいものを見るようだった。
「うん、痛くない」
私は首を横に振った。
「ただ、ちょっと怖くて」
「怖がらなくていい。俺がついてる」
彼が自分の上着を脱いで羽織らせてくれた。
「今夜は帰らない。ここでお前を守るから」
私は呆然と彼を見上げた。
「お兄さん……どうして私にそこまでしてくれるの? 本当に、ただの『妹』だから?」
城崎霖の手が私の頬で止まる。その瞳に複雑な色が走った。照明の下、彼の喉仏がごくりと上下した。
「……聞くな、灯」
私は視線を落とし、くぐもった声で言った。
「……布団、持ってくるね」
私が逃げるように納戸へ向かい、城崎霖もその後をついてきた。
納戸は狭い。棚の上にある布団を取ろうと爪先立ちになるが、あと少し届かない。
すると、背後から城崎霖が近づき、私の頭上へ腕を伸ばした。
距離が、近い。
彼の厚い胸板が私の背中に触れそうで、温かい吐息がうなじを掠めた。
「……お前はもう休め」
リビングに布団を敷き終えると、彼は言った。
「何かあったらすぐに呼ぶんだぞ」
私はこくりと頷き、逃げ込むように寝室へ入った。
けれど、眠れるはずもなかった。
目を閉じれば、青木日成の狂気に満ちた顔が浮かぶ。
だが次の瞬間には——私の頭の中は、城崎霖のことで埋め尽くされていた。
