第1章

2014年。

大都会の夜は濃く、すでに安らかな眠りに沈む者もいれば、酔いと欲望に溺れ、人の本性を剥き出しにする者もいる。

小島奈緒は必死に階段を駆け下りていた。

廊下に敷き詰められた分厚い絨毯や、ロビーにぶら下がる眩いシャンデリアに比べれば、非常階段の造りはあまりにも簡素だ。火事でも起きない限り、ここを使う人間などほとんどいない。

蛍光灯の白い光が冷たく照らす中、奈緒の頬だけが激しい運動で赤く染まっていた。

エレベーターは使えない。下の乗り口を相手の手下が塞いでいる。乗った瞬間、袋の鼠だ。

ヒールが足を引っ張った。ぐきり、と足首が折れそうに捻れる。痛みに歯を食いしばり、靴を脱ぎ捨てて裸足で走った。さらに二階分降りたところで、下から複数の足音がどっと迫ってくるのが、はっきり聞こえた。

ぞくり、と背筋が凍る。反射的に足を止める。

「急げ! 絶対上にいる! 出口は全部塞いだ! 逃げられるわけねぇ!」

男の声が階段室に反響し、耳にまとわりつく。

小島奈緒は即座に踵を返し、今度は上へ走った。

裸足の足音はほとんどしない。だがすぐに、また声が響く。

「靴がある! 上だ!」

絶望が胸の奥に沈む。上へ行けば行くほど、助かる道などない。それでも、もう他に逃げる方向がなかった。

最上階に辿り着き、扉を押し開ける。そこに広がっていたのは、漆黒の夜空――屋上だった。

街の照明が屋上を照らしている。殺風景で、雑然としていて、小さな小屋のような四角い突起がいくつか並ぶ。エレベーターの機械室か、冷却装置だろう。あとは補修用の足場が点在するだけ。

人影はない。

屋上に出た瞬間、足裏が何かで切れた。何を踏んだのかも分からない。痛みを堪え、前へ走り、四角い突起の陰に身を滑り込ませた。

お願い、神様。どうか見つけないで――。

だが、祈りなど届かなかった。数分遅れで連中が屋上へ上がってくる。彼らは彼女がここにいると分かっていながら、すぐに探し始めなかった。

唯一の出口を塞ぎ、「本命」が来るのを待っている。

ほどなくして、その男が現れた。もちろんエレベーターで最上階まで上がり、そこから屋上へ来たのだ。

「小島奈緒。隠れてないで出てこいよ。見えてるぞ」

楽しげに笑いながら叫ぶ。

嘘だ。あの位置から、彼女は見えない。奈緒は息を殺し、体をさらに小さく縮めた。足先が冷たいものに触れる。

見下ろすと、地面に腕ほどの長さの鉄パイプが落ちていた。

音を立てないよう拾い上げ、ぎゅっと握りしめる。

彼女が出てこないと分かると、聞き慣れた声が命令を飛ばした。手下たちが散って捜索を始める。ここは隠れようがない。十分もあれば見つかる。

それでも男は余裕たっぷりに言葉を投げ続けた。

「なぁ、考え直せよ。誰のために守ってんだ? 風間怜司か? はは。『誰も触るな』って息巻いてたくせに、今どこにいるんだよ?」

風間怜司。――また、風間怜司。

しつこく彼女に絡みついてきた風間怜司は、数か月前、突然学校から姿を消した。

奈緒は関係ないと思っていた。自分と風間怜司は、噂で言われるような関係ではない。そもそも何もない。

だが甘かった。風間怜司が消えた途端、待ってましたとばかりに誰かが彼女に手を伸ばしてきた。

男はさらに続ける。

「別にさ、俺はお前と風間怜司のことなんて気にしねぇよ。大人しくしろ。俺の彼女にしてやる。出てこいって。意地張るな」

「風間怜司とは寝たくせに、俺とは無理ってか?」

ふざけるな。寝てない。

歯を食いしばる。

女子たちは、彼女が通ると声を潜めて囁き、驚いたように息を呑み、見下すような目で蔑んだ。

男子たちは、胸や腰や尻を値踏みするように視線を走らせ、ひそひそと何か言っては、時に下品に笑った。

当事者にならなければ分からない。噂話がどれほど人を傷つけるか。

彼らはただの色恋沙汰として消費し、寝る前の話のタネにするだけで、当事者の人生を削る刃だとは知らない。

そして、噂を真に受けて「何をしてもいい」と勘違いする者がいる。目の前の男が、その典型だった。

足音が近づく。男の声が、もうすぐそこだ。

「お前、ほんと分かってねぇな。ぶりっ子してんじゃねぇよ。誰が知らねぇんだよ――貧乏女。1晩6万だろ? 俺なら15万出す。20万でもいい。出てこい」

息を止め、鉄パイプを握り締める。

男の靴先が見えた。次の瞬間、顔が覗き込む。自然な動きでこちらを確認し――隠れていた奈緒と目が合った。

「いた――」

喜色が走り、仲間を呼ぼうと口を開いた、その瞬間。

奈緒は全身の力を振り絞り、鉄パイプを振り抜いた。

鈍い衝撃。鼻梁を直撃し、血がぱっと弾ける。飛沫が奈緒の頬にも散った。

男は悲鳴を上げ、のけ反って倒れる。

奈緒はその体を飛び越え、階段口へ突っ込もうとした。だが物音を聞きつけた手下が一斉に駆け上がってくる。

鉄パイプを振る。用心棒が腕で受け、痛みに顔を歪めながらも逆に掴み取り、素手で奪い取った。別の男が彼女を地面へ押さえつける。

もがく中、手が何かに触れた。レンガの欠片だ。反手で振り上げ、押さえつけている男の頭へ叩きつける。

「ぐっ……」

男が呻いて手を緩めた。

その隙に振りほどく。

だが、逃げ場はない。最後の最後、奈緒は建物の縁へ飛び乗った。

「来ないで! 来るな!」

喉が裂けるほど叫ぶ。

けれど虚勢だ。手元にはレンガの欠片。背後は三十数階の闇。望めるのは、相手が突然良心に目覚めてくれることだけ。

――そんな奇跡が起きるはずもない。

血だらけの若い男が肩を支えられながら近づいてくる。目には凶光。鼻は激痛で、骨が折れているかもしれない。歯も二本欠けた。そんな状態で良心など思い出すわけがない。

「このアマァ!」

怒鳴り、唾を飛ばして命じる。

「引きずり下ろせ!」

男たちが迫る。奈緒は後ずさり――足を踏み外した。

闇へ。

落下の時間は、永遠のように長いという。恐怖で満たされる、と。

奈緒はその長さを、骨の髄まで味わった。死にたくない。苦しくても必死に生きてきた。死にたいはずがない。

自分が死んだら、お婆さんはどうなる?

人は、どうしてここまで残酷になれるのか。風間怜司ですら十分に酷いと思っていたのに、世の中にはもっと酷い人間がいる。

同じ学生で、同じ学校の人間で――どうして、ここまで。

恐怖と、悔しさと、怒りを抱えたまま。小島奈緒は墜ちて死んだ。

魂が身体を離れ、屋上を見上げる。彼女を殺した連中は慌ただしく去っていった。

警察が来て遺体を回収し、捜査が始まる。これで罰せられる――そう思った。

だが、違った。

どこからともなく現れた「目撃者」たちが口を揃えて言った。

その夜、彼女は金のことで客と揉め、叱責され、思い詰めて飛び降りたのだ、と。

言葉の端々は、彼女が自殺したと決めつけるために整えられていた。

結局、結論は「自殺」。

噂は学校にも届き、また風が吹く。

「不潔だよね。女の子があんなとこでバイトって。そういう店なんでしょ?」

「男客と金で揉めたんだって?」

「え、詳しく知ってるの?」

「……金らしいよ」

「1晩6万って、風間怜司から始まったって……」

語る者は、まるで見てきたかのように得意げで。

聞く者は、驚きと興奮で身を乗り出す。

汚水が、何度も何度も彼女に浴びせられた。

言葉には力がある。誰かが彼女の名を口にするたび、奈緒はそこへ引き寄せられた。死んだ直後、学校中が彼女の話題で沸き、彼女はあちこちへ引きずり回されるように彷徨った。

お婆さんも彼女を呼んだ。

「奈緒、奈緒……どうして帰ってこないの……」

お婆さんは家に閉じ込められ、食べ物を食い尽くし、飢えて扉を叩いた。

「奈緒……お腹すいた……」

奈緒はどうすることもできず、焦りで胸が裂けそうだった。

幸い、隣人が助けを求める声に気づき、通報してくれた。警察が扉を破り、お婆さんは餓死を免れた。

認知症の老人。警察も扱いに困っていた、そのとき。

一人の若い男が現れ、お婆さんを引き取っていった。

噂の中で、奈緒と寝たことになっている金持ちの御曹司――風間怜司。

風間怜司はお婆さんを認知症専門の施設へ入れ、その場を去った。

お婆さんが彼女の名を口にするたび、奈緒はお婆さんのそばに留まれた。そうして、どれほどの時間が過ぎたのか分からない。

ある日、突然――別の誰かに呼ばれた。

気づけば、そこにいた。

二度と忘れない場所――自分が死んだ屋上。

真っ暗な夜。彼女を殺した男が両腕を背中で捻り上げられ、地面に押さえつけられている。

風間怜司は目を真っ赤にし、鉄パイプを握っていた。あのとき落ちていたものと同じかどうかは分からない。だが彼は、鬼の形相で男を叩きのめしていた。

男の悲鳴が豚のように響くたび、奈緒の胸は妙にすっとした。

脚を折り、肋骨を砕き、最後には鉄パイプが曲がるほどに殴り続けた。

「カラン」と音を立て、パイプが地面に落ちる。

風間怜司は鼻を拭い、手についた血で顔を汚した。

ネオンに照らされたその姿は、まるで悪鬼。

彼は手を振り、手下が男を放す。

風間怜司は屈み、男の襟首を掴んで引きずり、建物の縁へ向かった。

場所は正確だった。

奈緒が踏み外して落ちた、あの位置。

男を引き起こすと、掠れた声で叫ぶ。

「風間怜司! 頼む! 許してくれ! 許してくれ! お願いだ!」

「……あいつも、頼んだんじゃねぇの?」

風間怜司が言う。

「お前は許したか?」

「殺人だぞ! 殺人だ!」

声が裏返る。

風間怜司は鼻で笑った。

「血の借りは、血で返す。それだけだろ」

淡々とした口調。刃物みたいに冷たい声。

「怖いか? あいつをここまで追い詰めたとき、あいつがどれだけ怖かったか、考えたことあるか?」

「俺じゃない! あいつが勝手に落ちたんだ!」

必死の言い逃れ。

風間怜司はしばらく黙り、夜の中で薄く笑った。

「お前もだ」

腕の筋肉がぎゅっと張り、溜めて――一気に持ち上げ、外へ放った。

奈緒は思わず目を覆い、見られなかった。

少しして下から、重いものが地面に叩きつけられる鈍い音。悲鳴。

指の隙間から覗くと、男はもういない。

そこにいるのは風間怜司だけ。

夜風が前髪を煽る。

彼の瞳は夜よりも濃く黒く、底なしの穴が潜んでいるようだった。

視線が吸い込まれる。外せない。

どうして?

誰のために復讐を?

答えが胸の奥で、形になりかけた。

「早く離れましょう」

手下が低く促す。下ではもう騒ぎになっている。

風間怜司はしばらく闇を見つめ、踵を返した。

階段口の扉を開け、皆が流れ込む。風間怜司は最後尾。

一歩、階段室へ入った、そのとき。

彼は扉に手をついたまま振り返った。

奈緒はふわりと彼の後を追っていたが、突然、目の前で縫い止められたように動けなくなる。

彼の視線は広い屋上へ向いている。だが彼女は、ちょうどその正面にいた。

だから――目が合った。

見えているはずがないのに。

まるで、彼女を見ているみたいに。

薄い唇がわずかに動く。声は吐息ほど小さい。

それでも奈緒の目は、見開かれた。

「仇は取った」

「奈緒」

ため息みたいな声。

手が離れ、風間怜司の背が階段室へ消える。

扉が跳ね返り、「ガンッ」と大きな音を立てて閉まった。

その音がやけに耳を裂き、次の瞬間――巨大な引力が彼女を見えない時間の渦へ吸い込んだ。

渦の中で時間が加速し、映像は夢のように、ぶつぶつと切り替わる。

彼が手錠をかけられ、牢に入る。

面会に来た若い男が嘲る。

「どんだけ恨みがあったんだよ。急に殺しに行くとかさ。お前が突然狂ってくれたおかげで、こっちは掴むネタができた。危うくひっくり返されるとこだったぜ。女一人のために、そこまでする価値あった?」

彼は無表情で見返す。

中年の男と、黙って向き合う場面。

「……縁がなかったんだろうな。この人生は」

中年がため息をつく。

彼は冷笑し、目に嘲りを宿す。

硬い寝台で眠り、夢の中で呟く。

「奈緒……奈緒……」

奈緒は呆然と見つめ、触れようと手を伸ばす。

だが虚ろな腕は、彼の身体をすり抜けた。

そして処刑の日。

青空の下、彼は碧い空を見上げる。短い人生が終わる。

奈緒は彼を「抱きしめた」。

「もし来世があるなら……」

涙が溢れる。

「私と、あなた……」

こんな結末は、もう嫌だ。

銃弾が唸り、彼女の魂を貫き、彼の心臓を撃ち抜いた。

時間の渦が咆哮し、津波のような力で映像を引き裂き、彼女自身も引き裂いた。

消える――そう思った。

だが目を開けると、大学1年のあの年に戻っていた。

すべては、まだ始まっていない。

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