第2章

「奈緒、奈緒。ほら、起きなさい。遅刻したら先生に叱られるよ」

 おばあちゃんのぶつぶつした声が耳に入って、小島奈緒は肩を揺すられながら目を開けた。

 目覚まし時計はいらない。うちの目覚ましは、おばあちゃんだ。

 認知症で記憶はあやふやなのに、生活リズムだけは妙に正確で、毎朝6時になると起きてくる。時計なんて見なくても、時間になれば必ず奈緒を起こしに来る。

 ただ、記憶が巻き戻っているせいで、奈緒のことをいまだに中学生だと思い込んでいる。遅刻したら叱られる、と。

 奈緒は目をこすり、勢いよく起き上がった。着替えて洗面。動きは手早い。

 朝いちばんにキッチンへ入り、おばあちゃんの一日分の食事を作る。持病がいくつもあるから、油も糖も塩もきっちり制限しなければならない。おばあちゃんのごはんは、全部奈緒が用意する。

 保温弁当箱を二つに詰めてテーブルへ並べ、湯を沸かしてポットに移した。

 幸い、記憶は混乱していても、食事とトイレくらいは自分でできる。最低限の身の回りができなければ、奈緒は学校へ通うことすら無理だった。

 奈緒は朝食をかき込むように食べ終えると、食器をシンクへ置いた。洗うのは夜、帰ってから。

 出かける前に、キッチンの扉に鍵を掛ける。

 掛けないと、おばあちゃんが火を使って料理しようとして、キッチンごと燃やしかねない。実際、前に一度あった。あのときは奈緒が家にいて、間一髪で消し止めたから大事にならずに済んだ。

「ちゃんとごはん食べてね。喉が渇いたらお水。トイレのあとは拭くの忘れないで。流すのもね」

 おばあちゃんの額にちゅっと口づけして言い聞かせる。

 ドアノブに手をかけ、外へ出ようとして――やっぱり戻った。

 もう一度、おばあちゃんをぎゅっと抱きしめる。おばあちゃんはにかっと笑って、奈緒の腕をぽんぽんと叩いた。

 胸がきゅっと痛んだ。

 認知症でよかった、と思ってしまう瞬間がある。

 目の前の苦しさを覚えていない。昔の幸せな時間の中にいるほうが、正気で現実に耐えるより、ずっとましだ。

 数日前、目を開けたら――大学1年の、入学したばかりの頃に戻っていた。

 最初は震えるほど驚いた。でも次に込み上げたのは、感謝だった。

 神様、もう一度やり直す機会をくれてありがとう。

 今度こそ、もっと慎重に。

 ちゃんと、生きる。

 家を出て道路を一本渡れば、大学のキャンパスだ。

 この建物はもともと学内の教職員住宅だった。古すぎて、もう半分は危険建築みたいなものだ。

 昔はキャンパスの一角にまとまっていたのに、都市開発で道路が真ん中を通り、住宅エリアだけが切り離されて、今では「大学の外側」になってしまった。

 新しい福利住宅が建って、多くの教員はそちらへ移った。ここに残っているのは、学内でぱっとしない人か、赴任したばかりの若い先生が多い。

 家庭の事情が特殊な奨学金受給生として、奈緒には1Kの部屋が割り当てられた。キッチンとトイレ付き。

 この部屋のために、奈緒は校内の偉い人たちに何度も頭を下げた。深く、何度も。

 そのときの写真が、のちに地元紙に載った。

 同級生は奈緒を見ると、ひそひそ言う。

 ほら、あの奨学金の子――と。

 奈緒は気にしない。

 食べ物があって、雨風をしのげる屋根がある。それ以上に大事なものなんて、そうそうない。

 死んで魂になって彷徨っていた時間が、何年だったのかは分からない。

 最初は皆が噂していたから意識ははっきりしていて、あちこちへ引き寄せられた。けれど話題が薄れ、名前を呼ばれなくなるにつれて、意識は半分眠ったみたいにぼやけていった。誰かが口にしたときだけ、少しだけ鮮明になる。

 生まれ変わってから、ふと思う。

 もし皆が完全に自分を忘れていたら――魂は、自然に消えていたのかもしれない。

 戻ってきて数日。生活のリズムはすぐに取り戻した。

 学生生活は単純だ。学ぶ、食べる、眠る。

 ただ奈緒には、それに加えていくつものバイトがある。学費は免除されても、生活費は必要だ。おばあちゃんの通院と薬代もある。稼がなければならない。

 最後の授業のチャイムが鳴る前に、奈緒は後ろの扉からそっと抜け出し、食堂へ駆けた。

 まだ人が少ない時間帯。奈緒は窓口を走り回り、頼まれていた料理を次々と注文しては持ち帰り用に詰めてもらう。

 学生の大群が雪崩れ込んでくる頃には、奈緒の分はだいたい出来上がっていた。

 リュックから布のエコバッグを二つ取り出し、弁当箱を次々と入れる。両手に一つずつ提げ、人の流れに逆らって女子寮へダッシュした。

 学内は配達禁止だ。頼んだ学生は正門まで取りに行くしかない。

 だから奈緒は入学直後、学内掲示板に広告を出した。女子寮までの「代行受け取り」。1件いくら。

 食堂に並びたくない子は、ベッドで待っていれば熱いごはんが届く。

 金を払ってサービスを買う人間は、いつだっている。

 この仕事は、前の人生でも死ぬ直前まで続けていた。常連も何人かいた。

 細い腕と脚で、二袋の「配達」を抱え、階段を上り下りして部屋まで届ける。汗だくになるけれど、自分とおばあちゃんの一日分の食費になる。

 食堂へ戻るとピークは過ぎ、席は半分ほど空いていた。残っているのは、食べ終わってだべっている学生や、飲み物だけの学生ばかり。

 奈緒は窓口へ駆け寄った。

 おばさんが爪楊枝をくわえたまま聞く。

「ほかは?」

「いりません。これだけで」

 おばさんは奈緒をじろじろ見た。

 白い肌、尖った顎、落ちくぼんだ目元。痩せすぎて、鎖骨が浮いて見える。

 ぶつぶつ言いながらも手は止まらない。

「あんたら若い子はほんと分かってない。変なダイエットばっかりして。ガリガリで何がいいの」

 ダイエットじゃない。節約だ。

 まだ9月中旬。おばさんとは、今はまだそこまで親しくない。

 でも奈緒にとっては――もう、馴染みの顔だった。

「鈴木さん、ありがとうございます」

 奈緒は甘く言って、続ける。

「卵、ちょっと多めにしてくれます?」

 鈴木さんは一瞬だけ目を丸くした。初対面の子が名字を知っているのは不自然だけど、胸の名札を見れば分かる。

 ちらりと奈緒を見て、口では唸りながら、しゃもじで卵を少し多めに入れてくれた。

 ここは安いから、前の人生でもよく来た。

 最初は「美容のために食べない子」だと思われていたが、奨学金受給生だと分かってからは、いつも半しゃもじ分おまけしてくれた。

 魂だった頃、一度だけここに呼ばれたことがある。

 食堂のキッチン裏でスタッフが噂話をしていた。校外で墜落死した女子学生の、下世話な話題。

 そのとき鈴木さんが怒鳴ったのだ。

「信じない! 奈緒はそんな子じゃない! てめぇ、適当言うな!」

 奈緒は皿の上の料理を見て、にこっと笑い返し、席を探した。

 鈴木さんは窓口にもたれて、また爪楊枝。

 手伝いの若い男が寄ってきて言う。

「今年の新入生っすか? めっちゃ可愛いっすね!」

 鈴木さんは鼻で笑った。

「痩せすぎよ。女は少し肉がないと」

 若い男は鈴木さんの腰回りをちらっと見て、慌てて視線を外し、さっきの美人をもう一度見ようとガラス越しに目を凝らした。

「……あれ?」

 驚いた声。

「奨学金の子……?」

 鈴木さんも目を向ける。

 痩せて白い女の子が、皿を置き、椀を手にして無料スープの樽へ向かっていた。

 無料スープは「全学生無料」と言いながら、実質は奨学金受給生への配慮だ。

「服、わざと古着っぽいのかと思ったら……」

 鈴木さんが呟いた。

 なぜ一品だけなのか、ようやく腑に落ちたのだ。

 奈緒はこの大学の運営を、心から尊敬している。

 無料スープや奨学金受給生への配慮は、確かに宣伝にもなる。けれど、ただの体裁じゃない。良心は、スープの濃さに出る。

 この大学の無料スープは、とにかく濃い。飯になる。腹が満たせる。

 それが、良心だ。

 奈緒が柄杓を取ろうとした、その瞬間。

 くしゃくしゃの使用済みナプキンが飛んできて、ぱしん、とスープの中へ落ちた。

 濃すぎて、紙はすぐには沈まず、表面に乗ったまま。

 奈緒は目を見開いた。脳裏に稲妻みたいに記憶が走る。

 ――来る。

 人の記憶は、必要なときにだけ目を覚ます。

 時間、場所、人物。引き金が揃った瞬間、眠っていたものが一気に引きずり出される。

 生まれ変わってからの数日、奈緒は必死に「今」に慣れようとしていた。

 大事な人は二人だけ。

 おばあちゃんと、そして――。

 会うべきか。どう向き合うべきか。まだ答えが出ていない。

 大学は広い。必ず会うとは限らない。だから、もう少しだけ心の準備をするつもりだった。

 でも、この紙くずが思い出させた。

 風間怜司の執着は――この無料スープの樽の前から始まったのだ。

 案の定、背後から笑い混じりの声がする。

「やべ、スープ入った。悪い悪い」

 奈緒は振り返らない。風間怜司の周りにはいつも人がいる。どこへ行っても取り巻きがいる。

 奈緒は紙くずだけを見つめた。

 指先でつまみ上げ、横のゴミ箱へ捨てる。

 柄杓でそっと掬い、紙が触れたあたりだけを捨てる。

 それから少し離れた場所から、たっぷり一杯のスープをよそい、席へ戻ろうとした。

 さっきまで騒いでいた男たちが、ぴたりと静かになった。

 視線が刺さるのが分かる。

 彼らにとって、このスープはもう「終わり」だ。口にできるはずがない。

 奈緒の行動は理解不能だろう。

 でも、空腹のほうが怖い。

 それに、前の人生では――紙くずを見て途方に暮れていたところへ、風間怜司が現れて声をかけてきた。

 今世は違う反応をした。

 それでも。

 椀を机に置く前に、斜めから伸びた手が奈緒の手首を掴んだ。

「同級生。それ、飲むな」

 低く、男の声。

 奈緒は振り向き、漆黒の瞳にぶつかった。

 人を殺すとき、墨みたいに濃く、底がなく、背筋が凍るほどの黒。

 けれど奈緒の記憶の中の風間怜司は、いつも軽薄で、遠慮がなく、追い回してくる鬱陶しい男だった。

 当時の奈緒は彼を心底うんざりしていたから、記憶の中の彼はどうしても醜くなる。

 ――それなのに。

 今、目の前の風間怜司の瞳は、星が散っているみたいに煌めき、炎が燃えているみたいに熱かった。

 奈緒を見つめる視線には、はっきりとした驚嘆と、むき出しの侵略性。

 奈緒は一瞬、息を忘れた。

 この時点で、彼の視線は――こんなにも灼けるように熱かったのか。

前のチャプター
次のチャプター