第4章
風間怜司は車を降り、声をかけて引き留めようとした。だが小島奈緒はもう、足早にバス停へ向かい、待っている人波に紛れてしまっていた。
人が多い。学校の近くに市場があるせいで、並んでいるのは年配の人がほとんどだ。この時間帯はもう、ぎゅうぎゅうになり始めている。
風間怜司は二歩ほど進んで、ふっと足を止めた。追いかけては来ない。
小島奈緒だって、クラクションの音は聞こえていた。
前の人生の、あの日。
彼女は風間怜司に食事を奢られ、その日の放課後、彼は車で校門前に現れた。「どこ行くんだ。送る」と。
この頃の彼は、まだ礼儀の皮を被っていた。後になってからの、息苦しいほどの強引さとは違う。
彼女は断ってバスに乗った。途中で色々あって、結局は半ば無理やり車に乗ることになる。
そこから先は、逃げられなかった。絡みつくような執着から。
一昨日、学校を出たときは、彼の車がいなかった。
――転生で、流れが変わったのかもしれない。
そう思って、こっそり息をついたのに。
転生してまだ数日。頭の中は整理がつかない。風間怜司とどう向き合うべきか、答えも出ていない。
考えがまとまるまでは、近づきたくなかった。
なのに。
彼が初めて校門で待つ――その出来事は一昨日には起きなかっただけで、消えたわけじゃない。
たった二日、先送りになっただけだった。
小島奈緒は人混みの影からそっと様子を窺う。
風間怜司は車を降りたものの、結局また運転席へ戻った。ああいう男が、年配の人たちに揉まれてまで追ってくるはずがない。
バスが入ってきた。停留所の秩序は悪くない。みんな一応、列を作って乗り込む。
それでも人数が多く、どうしても押し合いになる。
小島奈緒がステップに足をかけた瞬間、尻を――さっと撫でられた。
振り返ると、背後には眼鏡をかけた、見た目だけはそれなりに整った男。焦る様子もなく、むしろ苛立ったように言う。
「早く行けよ。そこで止まってんな」
……どうして、またこいつに。
小島奈緒は思う。
それとも、こいつはいつもこの路線に乗っているだけなのか。
一昨日は風間怜司を避けるため、いつもより少し早く出た。あの便では何も起きなかったから、彼女は勝手に――変わったのだと、思い込んだ。
違った。ただ時間がずれて、遭遇しなかっただけ。
起きたことは、起きるべくして起きるのか。
ぴったり同じ時刻じゃなくても、消えはしない。ただ遅れてやってくるだけ――。
小島奈緒は車内へ押し入りながら、リュックを胸の前へ引き寄せ、手を中へ差し入れた。
男は、女学生が何も言い返さず奥へ逃げるのを見て、薄く笑った。
こういう子は弱い。若くて、女の中でも一番扱いやすい。大人になって社会に揉まれれば、そう簡単にはいかなくなる。
だからこそ、狙うなら女学生だ。
男もまた、小島奈緒のいる方へじりじりと詰めてくる。
バスが、ゆらゆらと走り出した。
9月の半ばだというのに、まだ暑い。人いきれのこもった車内は、匂いもいいとは言えない。
小島奈緒はリュックを背負い直し、左手で吊り革を掴む。睫毛を伏せているように見せかけて、意識は背後に張りつめていた。
そして――また、あの手が触れてきた瞬間。
小島奈緒の目が、冷たく沈む。
右手に力がこもる。
次の瞬間、車内に男の悲鳴が炸裂した。
「なに!?」
「どうしたの?」
疲れた顔が一斉に跳ね起き、声のした方へ首が伸びる。
眼鏡の男は半狂乱だった。
「お前、頭おかしいだろ! 病気かよ!」
片手で、もう片方の手を握り潰すように押さえている。押さえられている手の甲からは血が滲み、ぽたぽたと落ちていた。
周りの乗客がさっと引き、二人の周りだけ小さな空間ができる。
「医療費払え!」男が喚く。
小島奈緒の手にはペン。鋭いペン先に、赤い雫が残っている。
彼女は男をまっすぐ見据えた。
「一円も払わない」
車掌が、少し高い位置から人波越しに声を飛ばす。
「どうしたのー!」
眼鏡の男は待ってましたとばかりに言い放つ。
「こいつが急にペンで刺したんだよ!」
車掌が人をかき分けてやってくる。状況を一目見て、視線を小島奈緒へ移した。
細くて、折れそうな体。尖った顎。大きな目。
はっとするほど整った顔立ちなのに、表情は冷え切っている。ただ、眼鏡の男だけを見ている。
車掌は一年中バスに乗っている。こういう揉め事を、何度も見てきた。
内心では察しがついていても、確認のために問う。
「何があったの?」
小島奈緒は息を吸い、言葉を整えた。
「乗るときに一回触られました。私が奥へ避けたら、ついてきました。さっき、また痴漢されました。だからペンで刺しました。正当防衛です」
眼鏡の男は即座に、白々しい正義面で否定する。
「俺じゃねぇ! でたらめ言うな!」
あまりにも無垢な顔、あまりにも堂々とした態度。
だからこそ、周りは迷う。どちらが本当なのか、判断がつかない。
眼鏡の男は知っている。こういう場面では、勢いがすべてだ。
勢いで押し切れば、弱い方が負ける。今までだってそうだった。
若い子がたまに口で抗っても、怒鳴り返せば先に折れるのはいつも相手だった。
男は傷ついた手の甲を押さえたまま、声を張り上げる。
「誰かドア塞いで! こいつ逃がすな! 医療費払わせる! 次で降りるぞ、病院行く!」
あまりに堂々としているせいで、乗客たちの表情が揺らぐ。
「この子、そんな人に見えないけどねえ」
太ったおばさんが言った。言いながら、小島奈緒を横目で値踏みする。目つきには露骨な嫌悪。
小島奈緒は相手にしている暇はない。眼鏡の男だけを見て言った。
「いいです。病院、行きます。でも――」
言葉を切り、冷たく続ける。
「先に警察を呼びましょう。車内のカメラを確認してもらって、拘留されるのがあなたか、医療費を払うのが私か、はっきりさせればいい」
そう言って、彼女は車両前方をちらりと見る。
眼鏡の男は一瞬固まった。視線を辿り、顔色が変わる。
小島奈緒が選んだ立ち位置は、ちょうど車内カメラの真正面だった。
男の表情が揺れる。
映っているかどうかは、混雑具合次第で確信が持てない。だが、悪いことをした人間は、どれだけ声を荒げても根っこは臆病だ。
ちょうどそのとき、バスが停留所に滑り込んだ。
眼鏡の男は目をぎょろりと動かし、急に態度を変える。
「お前がガキだから、今回は大目に見てやる! 俺、急いでんだよ! 今日は見逃してやる!」
そう言いながら、ドアへ向かって人を押しのけていく。
小島奈緒は迷った。
今回の自分は、転生前よりずっと勇敢だ。
前は、声を上げても勢いに負けた。自分が正しいのに、正しい顔ができなかった。だから周りは信じてくれず、あの男の方を信じた。
結局、責められて降ろされたのは自分だった。
そのとき、風間怜司の車がバスの後ろをついてきていた。
前の人生ではそれが一昨日で、しかもカフェの面接の日だった。遅刻できなくて、彼の車に乗った。
小島奈緒は、唇を噛む。
前の人生の自分は、面倒を避けて、揉め事を避けて、波風を立てないように生きてきた。
――それで何が変わった?
陰で笑われ、見下されるのは、少しも減らなかった。
一度死んだ。死んだ後ですら、口にされて汚され続けた。
だからもう、前みたいに黙って耐えるのは嫌だ。
「待ちなさい!」
小島奈緒が鋭く声を飛ばす。
眼鏡の男は心の中で悪態をつき、前の人間を乱暴に押しのけて外へ飛び出した。
小島奈緒も追って降りる。だが迷った一瞬が遅かった。
バスを降りた時には、あの男はもう、かなり先を走っていた。
追いついたところで、暴力を振るわれたら――。
そこまで考え、小島奈緒は足を止める。
振り返ると、バスの後ろに黒い車がぴたりとついていた。
フロントガラスが光を反射して、運転席の顔は見えない。風間怜司がこちらを見ているのかどうかも分からない。
――同じことは繰り返したくない。
小島奈緒は迷わず踵を返し、再びバスへ押し戻った。
車掌は新しく乗り込む客に「タッチしてねー」と声をかけながら、小島奈緒が戻ってきたのを見ると、少し眉をひそめた。
「次からは、ああいうのにムキになっちゃだめよ。相手は男なんだから。もし殴られたらどうするの。そういうのに当たったら、こっちに寄りなさい」
小島奈緒の胸がじんわり温かくなる。
「はい。ありがとうございます」
車掌は四十代くらいの女性で、口を大きく開けて笑った。
だが、後ろの方で小さな声が落ちる。
「なんであの人を痴漢って決めつけるの? 証拠もないのに」
振り返ると、言ったのはさっきの太ったおばさんだった。
別の乗客が言う。
「でも、逃げたじゃない」
太ったおばさんは鼻を鳴らす。
「急いでるって言ってたでしょ」
どう見ても後ろめたさの逃走なのに、周りは呆れ顔だ。
小島奈緒は前を向き、無視した。
ところが太ったおばさんは勢いづいたように続ける。
「そもそも、本当に痴漢ならさ。なんで他の子じゃなくて、あんたなの? そういうのは自分にも原因があるのよ。ほら、あの子みたいにきちんとした格好なら、何も起きないでしょ」
そう言って、指を伸ばす。視線がその先へ引っ張られ、別の女の子に集まった。
そばかすのある、少し地味な服装の子だ。注目されて居心地悪そうに、顔を背ける。
その瞬間、小島奈緒がゆっくりと振り返り、冷えた声で問う。
「……それ、どういう意味ですか」
太ったおばさんは得意げになる。
「だから、あんたたち若い子はね、そういう目に遭ったら自分を省みなさいって言ってるの。外に出るなら、もっと端正に、慎ましくしなきゃ。そうすれば変なのに絡まれないのよ」
そう言われ、乗客の視線がまた小島奈緒へ流れる。
そばかすの子もちらりと見て、劣等感と羨望が混じったように、そっと息をついた。
小島奈緒の服はごく普通だ。丸首の半袖Tシャツにジーンズ。服だけ見れば、別に派手でも不真面目でもない。
なのに、彼女が着ると違って見える。
どこかワンサイズ小さいみたいに体に張りつき、線がくっきり出る。彼女が痩せすぎていなければ、そもそも入らないんじゃないかと思うほど。
太ったおばさんは、最初から小島奈緒が気に入らなかった。
ああいう、男を呼ぶ顔をした子は――自分を布で包んで隠していないのが悪い。だから痴漢に遭って当然だ、と。
小島奈緒は鼻で笑った。
「私が何を着ようが、どう着ようが、私の自由です。私がどんな格好でも、あの人に触る権利なんてありません」
一拍置き、刃のように言い切る。
「私が綺麗に見えるからって、痴漢していい理由にはならない。じゃあ、あなたは太ってるからって、誰かがあなたをまな板に乗せて売ってもいいんですか」
車内に、ぶっと吹き出す笑いが広がった。ぷっ、ぷっ、と堪えきれない音があちこちで弾ける。
