第2章
霧生嵐だった。
彼は相変わらずだ。オーダーメイドの黒いコートを身に纏い、その佇まいは高貴にして冷淡。近寄りがたいオーラを放っている。
こちらを見つめるその瞳は、二年前よりもさらに氷のように冷たく、隠そうともしない嫌悪に満ちていた。
「神代雪璃」
彼は温度のない声で言った。
「俺に会って、挨拶の一つもできないのか?」
神代雪璃は奥歯を噛み締め、雪面に両手をついて立ち上がろうとした。だが、左足には全く力が入らない。
その時だった。霧生嵐が持っていた傘が不意に振り下ろされ、傘の柄が彼女の肩に強く押し付けられた。
ようやく半分ほど持ち上げた体は、その圧力に耐えきれず、再び雪の中へと無様に崩れ落ちる。
力任せというほどではなかったが、その行為に含まれる侮辱の意味は強烈だった。
「誰が立っていいと言った?」
神代雪璃は凍える雪の中に指を食い込ませ、溢れそうになる涙を必死に堪えた。震える声で、彼女は言った。
「霧生さん……お久しぶりです」
霧生嵐は居丈高に彼女を見下ろした。車内からではよく見えなかったが、こうして降りて確認すれば、確かに彼女だった。
今日は彼女の出所日だったか。すっかり忘れていた。
それにしても、神代雪璃の変わりようは酷いものだ。
かつて丁寧に手入れされていた艶やかな長い髪は、拘置所で強制される統一のショートボブに変わり、まるで藁のようにパサついていた。
顔色は蝋のように黄色くくすみ、そこには新旧の傷跡が幾重にも重なっている。
どこをどう見ても、かつて意気揚々としていた「神代の姫様」の面影はない。
もっとも、意外ではなかった。あんな場所から出てきて、まともな暮らしができるはずもない。
その惨めな姿を目にしても、霧生嵐の眼差しは冷え込む一方だった。
「随分と……変わったな」
彼は鼻で笑い、皮肉たっぷりに言い放つ。
「髪は短くなり、顔も傷だらけだ。神代のお嬢様、どうしてそんな化け物じみた姿に落ちぶれたんだ?」
神代雪璃は唇を噛み、一言も発さなかった。
その時、バスの運転手が恐る恐る駆け寄ってきて、霧生嵐に向かってペコペコと頭を下げた。
「旦那様、申し訳ございません、本当に申し訳ございません! 全部この女のせいです、まったく運が悪い!」
霧生嵐は運転手に目もくれず、ただ神代雪璃だけを凝視したまま、背後の秘書に命じた。
「緋野峻、この運転手の工号を控えておけ。後で修理費の請求書を送ってやるんだ。今日、誰のせいで不運に見舞われたのか、たっぷりと教えてやれ」
高級車の修理費と聞き、運転手の顔から血の気が引いた。彼は神代雪璃を睨みつけ、その視線には怨毒が込められていた。
今日という日はなんてついてないんだ。こんな女に関わったせいで!
神代雪璃の体が震えた。分かっていた。霧生嵐はわざとやっているのだ。
全ての人間に彼女を憎ませ、唾棄させるために。
これ以上、ここで辱めを受けるわけにはいかない。彼女は最後の力を振り絞って雪の中から這い上がり、踵を返して、足を引きずりながら逃げようとした。
「逃がすとでも思ったか?」
背後から、氷点下の声が響く。
次の瞬間、黒い傘の先端が彼女の顎先を軽く挑ね上げた。
強引に顔を上げさせられ、彼女は彼の深淵のような瞳と視線を合わせる羽目になった。
顔が近い。
彼の瞳の奥にある、隠しきれない憎悪がはっきりと見えた。
「たった二年の償いじゃ、あまりにも短すぎるだろう」
恐怖が、一瞬にして神代雪璃を包み込んだ。
刑務所での人間とは思えない扱いや拷問、同房者からの終わりのないいじめ、そして二年間一度も面会に来なかった神代家の冷酷さ……。
そして何より、二年前に左足を折られた時の激痛が蘇る……。
彼女はようやく悟った。出所は終わりではない。新たな地獄の始まりなのだと。
逃げ場など、どこにもないのだ。
「霧生嵐……」
神代雪璃は勇気を振り絞って彼を見上げた。声が震える。
「私が……私が悪かったわ。全部私のせいよ。二年間、毎日後悔してた……。罰ならもう十分受けたでしょう? お願い、もう許して……」
「許す?」
霧生嵐は低く笑った。
「神代雪璃、頭がおかしくなったのか?」
「優心の足は、もう二度と踊れないんだぞ。お前のたった二年の懲役で、彼女の一生の夢を償えると思っているのか? それで十分だと?」
十分だわ! どうして十分じゃないの!
神代雪璃は心の中で叫んだ。
あなたのおかげで、私の足も廃人同然になった。歩くだけで激痛が走るのよ!
私だってダンサーだった。私の夢だって、あなたに壊されたのよ!
けれど、その言葉を口にする勇気はなかった。
霧生嵐が彼女の苦痛になど興味がないことを知っていたからだ。
むしろ彼女が苦しめば苦しむほど、彼は喜ぶだろう。
神代雪璃は深く息を吸い、こみ上げる惨めさを飲み込んで、絶望的な声で尋ねた。
「なら……どうすればいいの?」
「法の裁きは終わった」
霧生嵐は笑みを消した。その眼差しは凍りつくほど冷たかった。
「だが、俺の罰はこれからだ」
彼は顔を背け、秘書の緋野峻に命じた。
「緋野峻、彼女を『星夜クラブ』へ送れ」
星夜クラブ!
神代雪璃の顔色が瞬時に蒼白になった。
H市でその名を知らぬ者はいない。富裕層の子弟たちが夜毎享楽に耽る場所だ。
そんな場所に送られるということは……彼女に残された最後の尊厳さえも踏みにじるつもりなのだ。
「嫌……霧生嵐、そんなの酷すぎる!」
神代雪璃の目から涙が溢れ出した。彼女は彼のズボンの裾を掴み、卑屈なまでに懇願した。
「どうして……どうしてそこまで残酷になれるの?」
「残酷?」
霧生嵐は彼女の手を冷淡に振り払うと、冷ややかに見下ろした。
「二年間の刑務所暮らしでも、まだ頭の下げ方を学べなかったようだな」
神代雪璃は雪の上に尻餅をつき、押し黙った。
いいや、とっくに学んでいた。
刑務所での罵倒と暴力は、かつての「神代のお嬢様」としてのプライドを完全に削ぎ落としていた。
今の彼女はただ生きたいだけ。これ以上、家族を巻き添えにしたくないだけなのだ。
彼女が抵抗をやめ、魂が抜けた人形のようになったのを見て、霧生嵐の瞳に微かな苛立ちが走った。
彼は彼女が足掻き、抵抗する様を見るのを好んだ。こんな死人のような姿ではない。
「連れて行け」
彼は緋野峻に冷たく言い放った。
「紡木祈に、直々に『世話』をさせろとな」
言い捨てると、彼は傘を畳み、振り返ることなくマイバッハの後部座席へと乗り込んだ。
黒塗りの高級車が雪煙を上げて走り去る。跳ね上げられた泥水が、容赦なく神代雪璃の顔に叩きつけられた。
秘書の緋野峻は小さく溜息をつき、彼女に手を貸した。
「神代さん、行きましょう」
タクシーの中、緋野峻はバックミラー越しに、泥だらけで狼狽する神代雪璃を見て、胸を痛めた。
「神代さん、二年前と比べて……別人のようになられましたね」
神代雪璃は虚ろな瞳を上げ、掠れた声で尋ねた。
「月見優心は……彼女はどうしているの?」
緋野峻は一瞬言い淀み、言葉を濁した。
「月見さんは……だいぶ良くなられましたよ。今はリハビリをされています」
神代雪璃の心は深く沈んだ。車窓を流れる景色を見つめる彼女の目には、光がなかった。
それから半月後。星夜クラブ。
神代雪璃は生地の薄い迎賓用のチャイナドレスを身に纏い、ロビーの入り口に立っていた。
毎日午後五時から深夜二時まで立ち続け、訪れる客一人一人に腰を曲げ、頭を下げ、笑顔を作って「いらっしゃいませ」と言うのが仕事だ。
今日は雨が降っていた。長時間立ち続けたせいで、古傷の左足はとっくに限界を超えていた。
激痛の時期は過ぎ、今はもう麻痺して感覚さえほとんどない。
「雪璃、顔色が悪いわよ。お客さんがいないうちに裏で休んできなよ」
一緒に迎賓をしていた泉凪紗が、声を潜めて言った。
泉凪紗は、この場所で彼女に優しくしてくれる数少ない人間だった。
「大丈夫」
神代雪璃は首を振り、強張った顔で笑みを作った。
「紡木マネージャーが見てるから」
「あいつ、わざとあんたをいじめてるのよ!」
泉凪紗は憤りを露わにした。
「あんたが霧生社長に送り込まれてきたこと知ってるから、調子に乗ってんのよ! 雪璃が綺麗だから嫉妬してるだけ! もう辞めなよ、こんな辛い仕事!」
辞める?
神代雪璃は自嘲気味に口元を歪めた。
私に辞める権利なんてあるの?
彼女は無力感に包まれながら、ただ静かに首を振った。
「どうして?」
