第3章
泉凪紗には理解できなかった。
神代雪璃とここへ来た時期はほぼ同じだ。半月ほど一緒に過ごしてみて、彼女の器量は良く、何より気立てもいいと分かった。本来なら、どこへ行っても好かれるはずの人柄だ。
なのになぜか、フロントマネージャーは彼女を目の敵にしている。
休憩もろくに与えず、シフトも融通を利かせないどころか、酔客の吐瀉物の処理ばかりを彼女に押し付ける。この半月あまり、マネージャーが彼女に対してまともな顔をしたことさえ見たことがない。
それでも神代雪璃は、ただ黙って従っていた。
まるで何をされても構わないといった風情で、理不尽な命令をすべて甘んじて受け入れている。
「お金も、住む場所もないんです。他の仕事も見つからなくて」
雪璃は小声で凪紗に言った。
「ここは少なくとも……寮と食事が出るから」
凪紗は彼女を見つめ、瞳に同情の色を浮かべた。
雪璃はそれ以上、何も言わなかった。
自分がどれほど惨めで、情けない姿をさらしているかは分かっていた。だが、どうでもよかった。
「星夜クラブ」は霧生嵐の持ち物だ。ここで自分が苦しめば苦しむほど、彼の気は晴れるだろう。
そうすれば、霧生嵐の怒りが神代家に飛び火することはない。
これだけが、家族のためにできる唯一の償いだった。
広場に、限定モデルのスポーツカーが二台滑り込んだ。
回転扉が押し開かれ、煌びやかな衣装を纏った若い男女の集団が、騒がしくロビーに入ってくる。
神代雪璃は即座に頭を下げ、九十度の最敬礼で迎えた。声は平坦で、揺らぎがない。
「いらっしゃいませ」
一行は彼女を一瞥もせず、その横を通り過ぎて行く。
雪璃が体を起こそうとしたその時――頭上から金切り声が降ってきた。
「あら? 誰かと思えば、H市で有名な殺人犯、神代雪璃お嬢様じゃない?」
雪璃の体が強張る。
顔を上げると、厚化粧の女が立っていた。
虹野光だ。月見優心の親友である。
「こんなところで何してんの?」
虹野光は大袈裟に口元を押さえ、品定めするように彼女を上から下まで眺めた。
「ああ、そうか。あんた……ムショから出てきたんだ?」
傍らの泉凪紗は目を丸くした。まさか彼女が、こんな富裕層と知り合いだとは思わなかったのだ。
雪璃は完璧な営業スマイルを浮かべたまま、何も答えなかった。
「二年臭い飯食って、口もきけなくなったわけ?」
無視された虹野光が、さらに苛立ちを募らせる。
「中で虐められて頭でもおかしくなった? お嬢様だもんねえ、中での生活はキツかったでしょ?」
雪璃は沈黙を守り、笑みを崩さない。
虹野光は完全にキレた。大声を張り上げる。
「マネージャーはどこ!? ちょっと呼んでよ! 星夜クラブはどうなってんの? 殺人未遂の前科者を客の前に立たせるなんて、私たちの安全をなんだと思ってるわけ!?」
彼女の叫び声に、ロビー中の視線が集まった。
その時、冷ややかな男の声が虹野光の背後から響いた。
「よせ」
雪璃の胸がざわつく。視線を向けると、そこには彼がいた。
月見映司。
月見優心の兄であり、服役中に唯一面会に来た人物でもある。
もっとも、その面会も憎悪に満ちたものだったが。
月見優心は月見家の至宝だった。特にダンスの才能が開花してからは、家族の寵愛と誇りを一身に受けていた。
兄である月見映司の溺愛ぶりは有名で、妹が少しでも傷つくことを許さなかった。
だから雪璃は理解している。最愛の妹を殺しかけた女を、彼が憎まないはずがないと。
「映司、来てたのね!」
虹野光はすぐに表情を変え、月見映司の腕に絡みつくと、雪璃を指差した。
「見て! 神代雪璃がいるわ! こんなところで客引きしてるのよ!」
月見映司の視線が雪璃に落ちる。
やつれて蒼白な顔、そして不自然な角度で体重を支える左足を見て、彼の瞳孔が収縮した。
長い沈黙の後、彼は複雑な響きを帯びた声で尋ねた。
「……いつ、出てきた」
その問いに心が揺れたのは一瞬だけ。彼女の感覚はとっくに麻痺していた。
「半月前です」
まるで他人事のように淡々と答える。
彼女は体をずらし、月見映司の視線を避けるようにして、再び恭しく頭を下げた。
かつての幼馴染としてではなく、ただの店員と客として。
月見映司は雪璃を見て、深いため息をついた。
「済んだことだ……もういい。これからは、まっとうに生きろ」
「まっとうに?」
虹野光が冷笑し、蔑むような目で雪璃を見た。
「映司、優しすぎるわよ。優心の人生を滅茶苦茶にしておいて、何が『まっとう』よ? こいつにはこういう底辺の仕事がお似合いだわ。一生他人に頭を下げて生きればいいのよ!」
雪璃の指先がわずかに震え、また元に戻った。
虹野光の言う通りだ。
「やめろと言っている」
月見映司が不機嫌に眉を寄せる。
だが虹野光は止まらない。簡単に見逃してやる気など毛頭なかった。
かつて神代家が隆盛を誇っていた頃、雪璃に見下されていた恨みを晴らす絶好の機会なのだ。
「嫌よ、言うわ!」
彼女は雪璃の腕を強引に掴んだ。その力は強く、拒絶を許さない。
「来なさいよ、神代雪璃。ちょうどいいわ、個室に古い友達もいるの。みんなあんたに『会いたがってる』わよ。積もる話でもしましょう?」
逃げられないと悟った。
心が重く沈んでいく。
これこそが霧生嵐の狙いなのだ。かつての知人たちに笑われ、今の自分がどれほど低賤な存在か思い知らされること。
雪璃は諦めて泉凪紗を見た。唯一の味方だと思っていた同僚を。
だが、「彼女が優心を害した」という言葉を聞いた凪紗の表情は一変していた。
同情は驚愕へ、そして明確な嫌悪へと変わる。
自分が毎日庇っていた相手が、前科のある犯罪者だと知ったのだ。
凪紗は後ずさり、俯いて視線を逸らした。
神代雪璃の瞳から、最後の光が消えた。
彼女は虹野光に押されるまま、月見映司の後について奥のVIPルームへと連行された。
バンッ!
ドアが乱暴に開け放たれる。
轟音のような音楽、充満する紫煙。
薄暗い室内から、呂律の回らない男の声が飛んだ。
「月見様、遅いよー! 俺らもう出来上がってるんだから、罰杯三杯ね! 光ちゃんも止めないでよ……」
虹野光はニヤリと笑うと、壁のスイッチを叩いた。
パッ!
全ての照明が点灯し、音楽が止まる。
突然の眩しさに、誰もが目を細めた。
「みんな、見て! 誰を連れてきたと思う?」
虹野光は甲高い声で笑うと、雪璃を部屋の中央へ突き飛ばした。
よろめいた雪璃の左足に激痛が走り、無様に体勢を崩しかける。
個室内の全員の視線が、彼女に集中した。
困惑が驚きへ、そして嘲笑へと変わっていく。
「見間違いじゃないよな……神代家のお嬢様か?」
「神代雪璃? 殺人未遂でブチ込まれたんじゃなかったのか? もう出てきたのかよ」
「落ちぶれたもんだな、こんなところで客引きとは……」
無数の針で刺されるような嘲笑の中、雪璃は能面のように立ち尽くしていた。
表情一つ変えず、静かに言う。
「私です」
あまりに淡々とした肯定に、野次馬たちが逆に言葉を失う。
月見映司は耐えかねたように声を荒らげた。
「虹野、もういいだろう!」
同時刻、最上階の社長室。
内線電話が鳴り、紡木祈の報告が入る。
「霧生社長。月見映司様ご一行が、神代雪璃を個室へ連れ込みました」
電話の向こうで、霧生嵐は袖のカフスボタンを弄びながら、気のない声で応じた。
「ああ」
「私が介入しましょうか?」
「必要ない」
霧生嵐の声が温度を失う。
「遊ばせておけ。二年間の刑務所暮らしで、あの女の骨の髄までへし折れたのかどうか……見ものだからな」
あの誇り高い神代雪璃が、そう簡単に変わるはずがない。
彼はまだ、信じていなかった。
