第4章
個室の中は一瞬の静寂の後、さらなる狂乱に包まれた。
「さあさあ、神代お嬢様。せっかくの再会なんですから、飲まないわけにはいきませんよねえ?」
一人の男が、並々と注がれたウィスキーのグラスを手に取り、有無を言わせず神代雪璃の手に押し付けた。
「これを飲み干せば、過去のことは水に流してやりますよ!」
神代雪璃はそのグラスを見つめ、反射的に胃が縮こまるのを感じた。
分かっている。これを飲んだところで、誰も水になど流してくれない。これはただの始まりに過ぎないのだ。
ここにいる人間は誰一人として、彼女を許すつもりなどない。
彼女は瞳を閉じ、顎を上げて、その辛辣な琥珀色の液体を一気に喉へと流し込んだ。
胃袋が焼けるように熱い。
彼女は必死に堪え、その場で吐き出したい衝動を抑え込んだ。
「いいぞ!」
「ノリがいいねえ!」
男たちが囃し立て、一杯、また一杯と、烈酒が彼女の目の前に差し出される。
神代雪璃はもう、自分が何杯飲まされたのか覚えていなかった。胃の中は業火で焼かれているようで、あと一口でも飲めば、このまま死んでしまうのではないかとさえ思った。
月見映司はソファの奥に座り、じっと彼女を見つめていた。この場の連中は悪意の塊だ。彼女に渡される酒はどれも度数の高いものが混ぜ合わされている。いくら彼女が酒に強いといっても、これでは体が持たない。
虹野光が悪意に満ちた笑みを浮かべ、テキーラのグラスを差し出したその時――。
一本の手が横から伸びてきて、そのグラスを奪い取った。
月見映司だった。
彼は陰鬱な顔つきのまま、その酒を自ら一息で飲み干した。
虹野光は呆気にとられ、みるみる顔色を変えた。
「映司? 何するのよ、それは神代雪璃への……」
ガアンッ!
空になったグラスが、テーブルに叩きつけられる。
「全員、失せろ!」
彼は低い声で唸り、充血した目で周囲を睨みつけた。
その凄まじい気迫に圧され、誰も声を出せなくなった。
月見映司は神代雪璃の冷たい手首を乱暴に掴むと、彼女の抵抗も構わず、力任せに個室の外へと引きずり出した。
「……月見映司、どこへ連れて行くの?」
彼は答えず、ただひたすらに彼女を引きずって歩いた。
クラブの外へ出ると、冷たい夜風が吹き付け、神代雪璃の混濁した意識がいくらか覚醒した。
月見映司は彼女を入り口の階段下まで連れて行くと、猛然と手を離した。
ただでさえ足が悪く、立ち尽くすのもやっとだった神代雪璃は、支えを失って無様に地面へとしりもちをついた。
「神代雪璃! 自ら堕ちていくのは楽しいか?」
月見映司は彼女を見下ろした。その瞳には複雑極まる感情――怒り、失望、そして彼女には理解できない微かな痛惜が渦巻いていた。
神代雪璃は顔を上げ、茫然と彼を見つめた。
「そんなにこの煌びやかな世界が忘れられないのか? ホステスに身を落とし、人に嘲笑われてまで戻ってきたいのか? 当初、優心を傷つけたのもそのためか? 霧生嵐のために、お前自身と優心の二人を破滅させて、それで満足なのか!」
神代雪璃の唇に、苦い笑みが浮かんだ。
彼女が口を開くより先に、虹野光が追いかけてきた。月見映司が神代雪璃を見つめているのを見て、嫉妬に狂いそうになる。
「映司! そんな人殺しと何を話してるの! まさかまだ彼女に未練が……」
その先は言えなかった。かつて月見映司は神代雪璃に想いを寄せていた。もし神代雪璃が車で月見優心を轢くという愚行を犯さなければ、月見映司も彼女を諦めきれなかったかもしれない。
だからこそ、怖いのだ。月見映司の中に、まだ彼女への情が残っているのではないかと。
「なんだ? こんな所で何をしている」
低く重厚な男の声が、虹野光の言葉を遮った。
霧生嵐が、氷のような表情で現れた。
彼の視線は月見映司を通り越し、地面にへたり込んでいる神代雪璃を真っ直ぐに射抜いた。口元には冷笑が張り付いている。
「0721。勤務中に抜け出すとは、迎賓係の規律も忘れたか?」
神代雪璃の体が震えた。
彼女はほとんど本能的に這い起き、足の痛みも無様な姿も顧みず、霧生嵐に向かって腰を折り、深く頭を下げた。卑屈なほどに。
「申し訳ありません、霧生社長」
霧生嵐が歩み寄る。圧倒的な威圧感が押し寄せてくる。
彼は神代雪璃の前で立ち止まり、鼻を鳴らした。瞳の温度がさらに下がる。
「勤務中に飲酒か?」彼は問うた。「誰の許可だ?」
「申し訳ありません……霧生社長、私は……」
神代雪璃の声が震える。
「霧生社長、どうしてここへ? 誰があなたを不機嫌にさせたんですか? 随分と殺気立っているようですが」
月見映司が一歩前に踏み出し、神代雪璃を庇うように霧生嵐の視線を遮った。
彼は霧生嵐を見据え、口調こそ平静だが、その瞳には挑発の色があった。
「それとも、霧生社長はわざわざ……見世物見物にでもいらしたんですか?」
月見映司の詰問に対し、霧生嵐は眉一つ動かさなかった。
その深淵のような瞳は、始終一貫して神代雪璃だけに釘付けになっていた。
彼は薄い唇を開き、氷の刃のような言葉を放った。
「0721。月見様に無礼を働いておきながら、まともな謝罪一つ言えないのか?」
神代雪璃の震えが激しくなった。
分かっていた。霧生嵐は、彼女を徹底的に追い詰めるつもりだ。
そして彼女には、それを拒絶する資格などない。
神代雪璃は一度目を閉じ、月見映司の方へ向き直ると、深く一礼した。
「申し訳ありません、月見さん。私の過ちです」
月見映司は何も言わず、ただ顔を曇らせていた。
霧生嵐が鼻で笑う。
「どうやら月見様は、その程度の謝罪では納得されていないようだ。いいだろう。なら、そこで跪いていろ。彼が『もういい』と言うまで、立つことは許さん」
神代雪璃は唇を噛み締め、赤くなった目元で霧生嵐の冷酷な瞳を見た。
彼は、月見映司の目の前で、彼女に残された最後の哀れな自尊心さえも捨てさせようとしているのだ。
だが、それがどうしたというのか?
今日ここで少しでも反抗すれば、霧生嵐の怒りの炎は倍になって彼女に降りかかるだけだ。
死にたいとは思っても、こんなところで無駄死にするわけにはいかない。
生きなければならない。生きて真実を突き止め、彼女を陥れた人間たちに代償を支払わせるまでは!
神代雪璃は目を閉じ、冷たい空気を深く吸い込んだ。再び目を開けたとき、その瞳の奥は死のように静まり返っていた。
彼女は膝の力を抜いた。月見映司と虹野光が驚愕の眼差しを向ける中、彼女はためらいなくその場に跪いた。
ドスンッ。
鈍い音が響き、膝頭が大理石の階段に打ち付けられる。
骨身に染みる激痛が全身を駆け巡り、特にかつて叩き折られた左足の痛みは、彼女の視界を暗くさせるほどだった。
「申し訳ありません」
彼女は頭を垂れ、消え入りそうな声で言った。
「月見さん……どうかお許しください」
月見映司の瞳孔が収縮した。彼は地面に跪く神代雪璃を凝視した。
命乞いをするだろうとは思った。弁解もするだろうし、泣き叫ぶかもしれないとも思った。だが、まさかこれほどあっさりと、これほど……尊厳を捨てて跪くとは思いもしなかった!
差し出そうとした手が空中で止まる。彼女を引き起こしたいという衝動と、触れることさえ汚らわしいという嫌悪がせめぎ合う。
「神代雪璃! 三年経っても、この男のためにそこまで卑しくなれるのか!?」
言い終わるが早いか、彼は猛然と振り返り、後を追ってきた虹野光の手から飲みかけのウィスキーを奪い取ると、それを神代雪璃の顔めがけて勢いよく浴びせかけた!
バシャッ――!
氷の混じった冷たい酒が、神代雪璃の頭から降り注ぐ。
飴色の液体が髪を伝って滴り落ち、薄い服を濡らし、刺すような寒気が瞬時に肌へと浸透していく。
あまりに惨めな姿だったが、彼女は避ける素振りさえ見せず、ただ彫像のように跪き、微動だにしなかった。
「反吐が出る!」
月見映司はそう吐き捨てると、拳を固く握りしめ、踵を返して大股で去っていった。
神代雪璃が我に返り、顔にかかった酒を拭う頃には、月見映司の姿はもうなかった。
彼はきっと、自分に失望したのだろう。
虹野光が得意げに鼻を鳴らし、小走りで彼を追いかけていった。
瞬く間に、クラブの入り口には跪く神代雪璃と、立ち尽くす霧生嵐だけが残された。
霧生嵐は彼女を見下ろしていた。その表情には何の変化もない。
「思い出したか?」彼は淡々と尋ねた。
神代雪璃は動かなかった。
「客が許していない以上、そのまま跪いていろ」
霧生嵐の声は極限まで冷酷だった。
「ついでに反省するんだな。かつて自分がどうやって車で優心に突っ込んだのかを」
彼は一歩近づき、しゃがみ込むと、神代雪璃の顎を指で挟み、強引に上を向かせた。
「覚えているぞ。お前が当時、俺を見ていた目もそうだった」
彼は嘲るように口角を上げた。
「俺のために、優心を傷つけることも厭わなかった。神代雪璃、お前の『好き』という感情は、今のそのプライドと同じくらい、安っぽいものなのか?」
屈辱の涙が、ついに堰を切ったように溢れ出した。
「霧生嵐……」
神代雪璃は彼の名を呼び、震える声で問うた。
「どうして……当時の婚約者は私だったのに! どうしてあなたは、そこまで月見優心のことが好きなの?」
実の兄である月見映司よりも深く彼女を憎むほどに、愛しているというのか。
「何だと?」彼は足を止め、冷ややかに彼女を見下ろした。
神代雪璃は至近距離にあるその顔を見つめた。十年間、愛し続けたその顔を。彼女は全身の力を振り絞り、一言一句噛み締めるように言った。
「後悔しています」
霧生嵐は鼻で笑った。
「後悔? 俺のために優心を傷つけたことをか?」
「いいえ」
神代雪璃の顔は化粧が崩れ、黒と白が混じり合って滑稽なほどだったが、その表情は絶望に満ちていた。
「後悔しています……かつてあなたを好きだったことを。霧生嵐、あなたを愛してしまったことこそが、私の人生における最大の間違いでした」
霧生嵐の手が、彼女の顎を砕かんばかりに強く締め付けた。その瞳に一瞬、暴虐な光が宿る。
だが次の瞬間、彼は手を離して立ち上がり、再び高みから見下ろす冷徹な支配者に戻っていた。
「そうか」彼は冷笑した。「ならそこで跪いて、存分に後悔するがいい」
そう言い残し、彼は背を向け、絶情な背中を見せつけてクラブの中へと戻っていった。
夜はさらに深まった。
気温は氷点下に近づき、骨の髄まで凍みる寒さだ。
酒で濡れた薄いチャイナドレスは、まるで氷の膜のように肌に張り付いている。
膝の感覚はとうになく、古傷のある左足は完全に麻痺していた。
深夜が近づき、クラブに出入りする客も増えてきた。通り過ぎる人々は、彼女を見て嘲るように笑う。
だが彼女は全く気にしなかった。ただ頭を垂れ、凍えて赤くなった自分の手を見つめ、外界の全てを遮断した。それはこの二年間で身につけた処世術だった。
刑務所にいた頃、彼女はいつも殴られた。最初は抵抗したが、反抗すればするほど暴力は酷くなった。
だから彼女は抵抗をやめた。ただ呆然と、彼女たちが気の済むまで殴るに任せた。やがて相手が疲れれば、解放されるからだ。
凍えるような冬の夜もそうだった。冷たい寝台の上で一人体を丸め、全ての感覚をスイッチオフにすることを覚えた。
痛みは、存在しないものとする。
寒さは、自分が死体だと思えばいい。
麻痺こそが、最良の防御なのだ。
もう何も考えたくなかった。霧生嵐も、月見映司も、どうか私を放っておいてほしい。
意識が遠のきかけたその時、温かいジャケットがふわりと肩にかけられた。
神代雪璃は困難な動作で顔を上げ、心配そうに覗き込む泉凪紗の顔を見た。
泉凪紗は眉をひそめて言った。
「着て。もう二時間も経ってるのよ。これ以上凍えてたら命に関わるわ」
泉凪紗の顔を見て、神代雪璃の混濁した頭に一筋の理性が戻った。
だめだ! 彼女を巻き込むわけにはいかない!
霧生嵐のやり方は、誰よりも彼女自身がよく知っている。
彼女を助けようとする者がいれば、その結末は彼女自身よりも悲惨なものになる。
神代雪璃の声は枯れていた。
「構わないで……あなたまで巻き添えになる」
「私の心配してる場合?」
泉凪紗は神代雪璃が何をしたのか詳しくは知らなかったが、ため息をついた。やはり見捨てられない。
「早めに辞めろって言ったのに、命まで懸けることないじゃない。待ってて、お湯持ってくるから……」
「行って!」
神代雪璃は最後の力を振り絞り、泉凪紗を突き飛ばした。
「構わないで! 私のことはあなたに関係ない!」
彼女に迷惑をかけたくない一心で、神代雪璃は手を伸ばして彼女を制止しようとしたが、焦りが裏目に出た。強烈な目眩が襲い、彼女の体は「ドスン」と音を立てて倒れ込んだ。
額が重く大理石の階段に打ち付けられる。薄れゆく意識の中で、泉凪紗の悲鳴が聞こえたような気がしたが、深い闇が押し寄せ、彼女は完全に意識を失った。
星夜クラブ最上階、社長室。
暖房の効いた室内は、窓の外の極寒の世界とは別世界だった。
紡木祈は巨大なガラス窓の前に立ち、眼下の雪の中に跪く単薄な影を見下ろし、眉を寄せていた。
彼女は振り返り、ソファで優雅にウィスキーのグラスを揺らす男に、恐る恐る声をかけた。
「霧生社長、外は冷え込んでいます。神代さんは……あのまま跪かせていては、命に関わるかと」
霧生嵐は瞼一つ上げず、冷然と言い放った。
「死んだら、捨てておけ」
紡木祈の心臓が早鐘を打った。さらに何か言おうとした時、ドアが急かされるようにノックされた。
「入れ」
部下が早足で入室し、一礼して報告した。
「霧生社長、神代さんが倒れました」
霧生嵐のグラスを揺らす手が、わずかに止まった。
「それで?」彼は淡々と尋ねた。意外でもないというふうに。
「それが……月見映司様が、月見家のご長男が突然車で戻って来られまして、彼女を抱き上げて車に乗せ、そのまま病院へ搬送されました」
パリーン――!
クリスタルのグラスが霧生嵐の手の中で砕け散った。
鮮血の混じった酒が、ガラス片と共に骨ばった指から滴り落ち、高価な絨毯を赤く染めていく。
だが彼は痛みなど感じていないかのように、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は怒りに満ちていた。
月見映司だと?
奴に、俺の獲物に触れる資格があると思っているのか!
「追え」
霧生嵐の声は、怒りを必死に抑え込んでいた。
「二人だ。徹底的に監視しろ。奴らが……一体何の真似をしているのか、突き止めるんだ」
