第1章
赤い木の扉の向こうで、私は汐見奈緒が手ずからデザインしてくれたウェディングドレスをまとい、心を込めて選んだブーケを抱えていた。胸の奥が、落ち着かない。
夢の中みたいで、まだ信じきれない。私が小野寺允樹と――本当に結婚するんだ。
十年。出会った頃の彼は、まだ十代の陰のある少年だった。自信がなくて、臆病で、口数も少ない。どこか自分に重なって見えて、私は少しずつ距離を詰めた。冷え切った者同士が、互いの体温で温まろうとするみたいに。
いま目の前にあるのは、百合で飾られた彫り込みのある大扉。私は口元にいちばん綺麗な弧を浮かべ、扉が開くのを待つ。これから一歩ずつ、幸せへ歩いていく。そうすれば、ようやく「家」ができる。
結婚行進曲が鳴り始めた。深呼吸して、心の中でカウントダウンを刻む。
その瞬間、扉が乱暴に開いた。
現れたのは、焦りで顔を歪めた小野寺允樹。手にはスマホ。私の脇をすり抜けるように、急ぎ足で走り去ろうとする。
「允樹、どこ行くの?」
考えるより先に、私は彼の裾をつかんでいた。
胸の奥で、不吉なものがうごめく。彼はこれまでも何度も私を置いて行った。けれど今日は、私たちの結婚式だ。だから今回は――駄目だ。
「葉月、清美の容体がよくない。あの子はお前の妹でもあるだろ。もし何かあったら、俺たちは一生悔いる」
焦りを隠しきれないまま、眉を寄せ、声を落として続ける。
「だから……頼む。これが最後だ。ちゃんと話をつけてくる」
スマホの向こうから、聞き慣れた声がした。夏川清美。甘えるように、けれどどこか芝居がかった声。
『允樹兄さん、今日はお兄さんとお姉ちゃんが結婚する日でしょ。私のことはいいから……お姉ちゃんに恨まれたくないの。私がいなくなれば、二人が幸せになれるなら……私、いいよ』
「清美、今行く。早まるな」
允樹はそう優しく言って、私を一度だけ深く見た。次の瞬間、背を向けて走り出す。
止めようとして、指先が彼の指に触れた。けれど体温は一瞬で消えた。
振り返りもしない。残されたのは、立ち尽くす私だけ。どうしていいかわからず、手足が宙に浮く。
親友の汐見奈緒が、真っ先に駆け寄ってきた。
「葉月、大丈夫?」
目が熱い。涙が溜まっていく。私は掌を爪で強く掻きむしった。ネイルが皮膚に食い込み、痛みが冷静さをつなぎ止める。
大丈夫なわけがない。今日は結婚式だ。いちばん大事な場面で、彼は私を置いて行った。清美の元へ――名目上の妹、夏川清美の元へ。
「どういうことだ? 允樹は何で急にいなくなったんだ」
小野寺允樹の両親が慌てて来て、私を詰問する。
私は静かに言った。
「もっと大事な用があるんでしょう。式は中止にしてください。今日は親戚友人へのおもてなしということで」
私と允樹の結婚は、恋の結末だけじゃない。夏川家と小野寺家の結びつき――両家の体面を繋ぐ証でもある。
私はかつて「家同士の縁談」なんて鼻で笑っていた。十年分の想いは、誰にも比べられないと信じていた。私たちの間には純粋な愛がある、と。
けれど允樹が背を向けた、その一秒で気づいた。
――それは、私が自分に見せていた夢だ。
愛なら、今日、彼は去らない。
愛があるなら、これまで十回、百回と繰り返された「妹を選ぶ」瞬間で、彼は一度でも私を選んだはずだ。
何度も捨てられてきた。だからもう、今回は待たない。
「馬鹿なことを言うな!」
小野寺景山が眉を吊り上げ、冷たい声で言う。
「この婚礼にどれだけ準備したと思ってる。親戚も友人も皆来てるんだぞ。中止だなんて――それに、祖父はまだ入院中だ。知ったらどうする」
「そうよ、続けましょう」
允樹の母、氷上雅子が慌てて笑顔を作る。
「ここまで来たんだもの。儀式が少し欠けたって、結婚は結婚よ」
新郎のいない結婚式が、どこにある。式の最中ですら私を捨て、清美を選ぶ男に、なぜ私は嫁ぐ必要がある。
「困るなら、私が皆さんに説明します」
そう微笑み、重いドレスの裾を持ち上げて、私は赤い絨毯を歩き出した。自分で整えた舞台へ。
景山が警告の目を向けてきた。彼は先に司会者からマイクを奪い、余裕の笑みを浮かべて告げる。
「皆さま、申し訳ありません。緊急の用事で允樹が少し席を外します。式は後ほど改めて。お食事は予定通りお楽しみください。至らぬ点もあるかと思いますが、どうかご容赦を」
それから私に微笑みかける。
「葉月はいつも聞き分けのいい子だ。允樹のこと、理解できるよな? 安心しなさい、必ずもっと盛大な式をやり直させる」
結婚式? もういらない。
「お義父さま、允樹の代わりに決められることじゃありません」
下には両家の親族友人、それに取引先もいる。言うべきじゃない言葉もある。けれど、黙って耐えるなんてできない。
雅子が腕をつかんで引き留める。
「葉月、允樹が悪いの。きっと大事な事情があったのよ。後で私たちが叱るから。ほら、席に着いて少し食べなさい。朝から大変だったでしょう」
……いい。彼らが守りたい体面には、もう一度だけ付き合ってやる。祖父のためなら、それだけは価値がある。
私は微笑み、頷いた。
「お食事は結構です。失礼します。先に帰ります」
長い裾を抱え、振り返らずに会場を後にした。
「葉月、待って!」
汐見奈緒が追いかけてくる。
「どこ行くの?」
ホテルを出た瞬間、空を見上げた。鉛色の雲。太陽は一筋も見えない。今にも雨が落ちそうで――私の心そのものだった。
「……ちょっと、一人になりたい」
奈緒が腕をつかむ。目に心配が溢れている。
「そんな顔しないで。何かあったら言ってよ。小野寺允樹のクソ野郎、結婚式で花嫁放置とか……帰ってきたら私が許さない」
私は小さく首を振った。
「……もう、いい」
「え?」
「いいの。結婚したくないなら、させてあげる。今日の式はもう終わった。奈緒、一人にして。お願い」
ちょうどホテル前にタクシーが停まっていた。手を上げると、車が寄ってくる。私は奈緒の手を振りほどき、そのまま一人で乗り込んだ。
ドレスの裾が大きすぎてドアに挟まる。眉をひそめて引っ張った瞬間、縫い込んだ丸い真珠がぽろぽろと落ちた。
私がデザイン画を見ながら、奈緒に足してもらった小さなこだわり。真珠が好きだった。控えめで、目立たない。
――最初から間違っていたのかもしれない。私が好きなものは、私に似合うものじゃない。きらびやかなものは、結局長くは続かない。
頭の中は真っ白で、涙すら出ない。幼なじみみたいに寄り添って、ついに結ばれる――そんな綺麗な結末を信じていたのに。気づけば全部、色のついた泡みたいに、触れる前に弾けていた。笑い話だ。
ぼんやりしたまま、私は行き先を告げていないことにも気づかなかった。
けれどタクシーは走り続け、窓の外の景色はどんどん寂れていった。
