第2章
タクシーに乗せられたまま、私は海辺へ連れて来られた。観光地でも何でもない。あるのは、潮風が波を叩く音と、遠くの道路を唸りながら駆け抜けていく車の気配だけ。
――こういう静けさが、今の私には必要だった。
ヒールを脱ぎ捨て、裸足で砂浜を歩く。吹きつける風は塩気と苦みを含んでいて、鼻の奥がつんとした。
真っ白なウェディングドレスの裾は、泥と砂に濡れて、汚れた雑巾みたいになっている。……私が信じ込んでいた「愛」も、同じだ。
ようやく家が手に入る。そう思っていたのに、いちばん幸せな瞬間に、彼は私の頭に棍棒を振り下ろした。
……もう、いい。
そもそも、私がこの世界に来たこと自体が間違いだったのかもしれない。あのとき、彼らが私を探し当てなければよかった。あの荒れた山村で、勝手に生きて、勝手に朽ちたほうが、きっと楽だった。
比べるものがなければ、幸福を仰がなくていい。地獄にいる痛みだって、薄まる。
そう。私は夏川家の実の娘だ。けれど彼らの心の中で大事なのは、偽物のお嬢様――夏川清美のほう。いつだって、ずっと。
親に愛されていないと認めるのは、誰にとっても苦しい。けれど、私は違う。……もう慣れているから。
十三歳まで、私は夏川葉月じゃなかった。あの頃の名は日向咲。母もまた、いまの雍容で優雅な女じゃない。夏川家の家政婦だった。
二人の女がそれぞれ子どもを産み、私はすり替えられた。「本物」なのに捨てられた側。養母が私に日向咲なんて名をつけたのは――たぶん、生かす気がなかったからだ。
村に放り出され、殴られて育った。やがて私は殴り返す術を覚え、反抗し、野草みたいに伸びていった。
母がハイヒールの音を鳴らし、綺麗なスカートで現れた日。私は村の子の首を、全力で絞め上げていた。
「誰が雑種だ?」
私の凶暴さに怯えたのか、母はさっと一歩引いた。きっちりスーツを着た男が私たちを引き剥がし、真っ赤な目をした私を見た母は、柔らかな声で言った。
「……ママって呼びなさい」
あの瞬間の自分の顔は、覚えていない。ただ、頭の中がふわふわして、夢みたいだった。
私は「母」を知っていた。粗野で、髪を掴んで「雑種」と吐き捨てる女。目の前のこの優雅さとは、月とすっぽんだった。あの女なら、こんなふうに優しく「ママ」と呼ばせたりしない。
あとで知った。私は故意に取り違えられた「本物」だったのだと。
見たこともない豪華な車で山村を出て、綺麗な邸宅で出会ったのが、白いワンピースを着た夏川清美だった。
あの清純そうな顔の下に、どれほどの毒が潜んでいるか。いちばん知っているのは、私だ。
……どうでもいい。
欲しいなら全部くれてやる。父と母の愛も、兄の庇護も、小野寺允樹の愛も。もう、要らない。
空がゆっくり暗くなっていく。私は海岸に座り、顔を上げた。潮風が頬を切る。最初の蒸し暑さは消え、冷たさが混ざる。
それでも、涙は音もなく落ちた。
清美の言う通りだ。私がどれだけ必死でも、彼女が一言泣けば、私はいつでも元に戻される。
彼女が俯いて涙を溜めるだけで、着替えて送る準備をしていた両親ですら家に残った。彼女が目で合図するだけで、私を背負って車に乗せようとしていた兄は、背筋を伸ばして引き下がった。
そして彼女が電話を一本かければ、私を迎えるはずだった新郎が、彼女の隣に現れる。
頬を流れる涙は冷たい。私は――完全には無関心になれない。
そのとき、背後で、ささ……と小さな音がした。
振り返った瞬間、状況を確かめる間もなく、鼻を突く臭いの布が口と鼻に押し当てられた。視界がぐらりと回り――意識が落ちた。
次に目を覚ましたとき、世界は真っ暗だった。手足がきつく縛られていて、少し動かしただけで手首に鋭い痛みが走る。
――誘拐?
恐怖が一気に全身を這い上がる。目的は金か、それとも身体か。どっちだ。
そっと身じろぎすると、目には布が巻かれているらしい。見えない。鼻先に黴っぽい匂い。手の下は湿った木の床。外から波の音が聞こえる。……まだ海の近くだ。
必死に身をよじった瞬間、ひやりとした刃先が首筋の動脈に当たった。肌を刺す氷の感触に、心臓がひゅっと縮む。
しゃがれた男の声が落ちる。
「生きたきゃ動くな」
叫びたい。誰だ、なぜ私を、条件は――。
けれど口はガムテープで塞がれていて、「ん゛っ、ん゛っ」としか出ない。交渉すらできない。
「兄貴、人は起きました。雇い主、まだ来てねえっす。どうします?」
別の男が言う。
少しの沈黙のあと、気配が立ち上がった。足音が私の横を通り過ぎる。
「見張ってろ。電話してくる。人は連れてきた。あとは俺らの仕事じゃねえ」
偶然じゃない。誰かの指示だ。
誰が、何のために。金目的なら外れだろう。夏川家にとっても小野寺家にとっても、私の値打ちは高くない。
そのとき、脂ぎった手が伸びてきて、頬から胸元へとねっとり撫で下ろしてきた。
「お、いいじゃねえか。金持ちの嬢ちゃんは育ちが違うな。ほっぺ、つまんだら水が出そうだ……身体はもっと――」
指が襟の中に入り、胸を乱暴に掴んだ。吐き気がせり上がる。
痛む手首も構わず暴れた。足が何かに当たり、ガシャン、とガラスの割れる音。外から駆け込む足音、鈍い衝撃音――嫌な手が消えた。
「てめぇ、いい加減にしろ。俺らは金が目的だ。命までは取らねえ」
入ってきた男が声を低くして警告する。
その瞬間、電話越しに、かすかに聞き覚えのある声が響いた。
『……どうしたの?』
「何でもねえ。子分が手ぇ出そうとしてただけだ。止めた」
男はそう言いながら、また外へ出ていった。
血が凍りついた。
今の声――夏川清美。
清美が、私を誘拐させた?
なぜ。允樹はもう、彼女の電話一本で動いた。結婚式すら捨てて。まだ足りないのか。
「ちっ、食えねえのは惜しいな」
さっきの男が私の脛を蹴り上げた。痛みに体が折れ、反射的に丸まる。
だがすぐ呼ばれて出ていき、部屋は静かになった。
私は少しずつ体をずらした。さっき割れたガラス片――近い。縄を切れれば、逃げられる。
扉の開く音がしたとき、私は破片を掴んでいた。掌が裂ける、灼ける痛み。それでも息を殺し、耳を澄ます。
コツ、コツ、コツ。ハイヒールの音が近づいてくる。
香水の匂い。――清美だ。
冷たい刃が私の顎を持ち上げ、頬へと滑っていく。薄く触れるだけなのに、肌が粟立った。
「夏川葉月。今日という日を、ずーっと待ってた。言ったでしょ? 大きなプレゼントをあげるって。気に入ってくれるといいな」
天使みたいに甘い声。いつも通りの、清らかな声音で。
「允樹兄さんがね、『もう君は妻だ』って言ったの。すっごく嫌だった。私のほうが先に知ってたのに。どうしてあなたにだけ特別なの? この綺麗な顔のせい?」
刃先が、頬を撫でる。
「――ねえ、顔を壊したらどう? 不細工ちゃんになったら、まだ好きでいられるのかな」
いちばん綺麗な声で、いちばん毒のある言葉を吐いた。
