第5章

「叫びが足りねえな。俺の手加減が甘かったか?」

男は顔を覗き込み、指で私の頬をつまみ上げた。ぎり、と力が入る。骨ごと砕かれそうで、息が詰まる。

「何年も運び屋やってきて、今日ゃ危ねえとこだった」

ぺっ、と唾が飛んだ。頬にべったり張りつく。次いで、乱暴に私の顔を横へ弾き、男は立ち上がった。鋲の打たれた靴底が、そのまま私の顔を踏みつける。見下ろしてくる三白眼に浮かぶのは、露骨な蔑み。

「覚えとけ。おとなしくしてりゃ、苦しみも減る。余計な真似したら、すぐ海に放り込んでサメの餌だ。……わかったか?」

言いながら男は葉巻を深く吸い込み、ふう、と煙を私の顔へ吹きつけた。次の瞬間、火のついた先端が左胸にぐっと押しつけられる。

じゅっ。

「ん? 聞いてんだよ」

喉はとっくに潰れていた。目の前の凶相を見上げながら、私は従順なふりをしてこくりと頷き、無理やり声を絞り出す。

「……お金を……渡せば……放して……もらえますか」

「はははは――」

男は腹を抱えるように笑い、手下たちへ顎をしゃくった。

「この期に及んで条件交渉かよ。ここがどこか、わかってねえのか? 今ここで海に捨てたって、誰も気づきゃしねえ。ま、金があるなら移動が少しは楽になる。……で、いくら持ってる?」

いくら、だろう。

夏川家はY市でも指折りの一族で、会社の持ち株だけでも何十億という話だ。だが、実の娘である私に残っている金は――せいぜい数百万。

それも、大学時代にソフト開発で取った賞金や報奨金の積み重ねだ。

家族カードだって渡されたことはある。けれど最新型のパソコンを買って帰っただけで詰問されて以来、二度と触っていない。もうどこにあるかもわからない。

「……ひゃ、百……万……」

喉が砂みたいに乾く。ひと言吐くたび、刃でこすられるように痛い。

顔に傷のある男の足が、さらにぐい、と力を増した。

「舐めてんのか? 夏川家のお嬢様だろ。人質にしたって数千万じゃきかねえはずだ。100万? 乞食の小遣いかよ」

塞がりきらない傷口がまた開いたのか、床に押しつけられた頬に、ぬるりとした粘つきが広がる。

「……夏川家が……?」私は眉を寄せた。あの人たちが、歓迎されていない私一人に何千万も払う? 「……100万しか……ないんです。本当に……」

男は鼻で笑う。

「100万? ガキでも騙せねえ。金持ちは飯一回でそのくらい使うんだろ?」

私は苦く笑ってしまい、頬の傷が引きつれた。痛みはもう、遠い。

「残高……見せます」

靴が離れた。男が目線で合図し、手下が私の両手を縛っていた縄を刃物で切る。

私はゆっくり起き上がり、痺れきった手首をそっと回した。右手の傷の黒い痂皮が割れ、赤い血がまた滲む。汚れと血で色もわからなくなっていたウェディングドレスが、さらに赤く滲んだ。

スマホが投げ渡される。

「変な気起こすなよ。ここまで来たら、羽が生えたって逃げられねえ。おとなしくしてりゃ、少しは楽にしてやる。お前みてえな細っこいの、痛めつけたらすぐ壊れるからな」

わかっている。だから、指が震えても画面を開いた。

口座残高、102万。

一円たりとも楽に稼いだ金じゃない。忘れるはずがない。

私は画面を男に見せ、それから残っている金をすべて、端数まで一括で振り込んだ。

「……ついてねえ。これっぽっちかよ」

男は舌打ちしながらも、どこか納得した顔で肩をすくめる。

「まあ、赤字にはならねえな。……よし。足も緩めろ。縛りすぎて足が死んだら、値が落ちる」

手下が渋い顔をした。

「兄貴、縛っといたほうが大人しいっすよ。解いたら逃げようとするだろ」

「逃げる? どこへだ」

男は冷たく笑った。

「海に飛び込めば死ぬだけだ。こいつは死にたくなさそうだろ。見張りゃいい。競りは月イチだ、時間はある。傷だらけにしたら商品価値が落ちんだよ」

そう言われ、手下が匕首で私の足首の縄を切った。

立ち上がろうとして、膝が砕けた。長時間の拘束と全身の傷で、身体が言うことを聞かない。私は床に崩れたまま、顔に傷のある男へ小さく頭を下げる。

「……ありがとうございます、兄貴」

「はは、わかってんじゃねえか」

周りから下卑た笑いが上がった。男も面白がるように私を見下ろす。

「礼はいらねえ。死にたくねえなら、面倒起こすな」

「……兄貴、安心してください。生きたいです」

「賢い女だな」

男は少し身をかがめ、上から言い聞かせるように言った。

「五郎。こいつに抗生剤、持ってこい。……お前が生きたいなら、俺も手元で死なせたくねえ。競りに出すのが、お前が生き延びる唯一の道かもしれねえしな。臓器用の倉に回されたら……わかるだろ。だから素直に従え。数日くらいは、楽にしてやる」

私は強く頷いた。

競りなら、来る連中はまともじゃない。けれど人に接触できる可能性はある。私の価値を見せられる場所が、そこにある。

私には、かつて開発して、却下された一本のソフトがある。金じゃ測れない価値があると信じている。――それが、最後の切り札。生き残るための唯一の糸。

私は船内の一室へ連れて行かれた。男は抗生剤を放り投げるように寄越し、さらに、飯まで持ってこさせた。

どれだけ水も口にしていなかったか、もう思い出せない。運ばれてきた飯は冷え切っていて、明らかに残り物だった。それでも私は、傷だらけの手を震わせながら、宝物みたいに少しずつ口へ運び、米粒ひとつ残さず食べきった。

船室に座り込むと、もう「逃げる」ことは考えない。

私は歯でドレスの裏地を噛み、ぶちぶちと引き裂いて布を作り、手のひらに何重にも巻きつけた。

痛みは、いちばん小さな問題だった。

薬を飲み、身体を半分だけ伏せる。無理やり目を閉じる。眠れ――休め。これから先に待っているのは、未知ばかりだ。

それを捌くには、今はただ、少しでも体力が必要だった。

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