第6章
揺れる船体に身を委ねたまま、私は半分眠って、半分目を覚ましていた。
――夢を見ている。
夏川清美が現れた。裂けたみたいな笑みが、じわじわと歪んでいく。声だけはいつものまま、やけに甘いのに、吐き出す言葉は背筋を凍らせた。
「お姉ちゃん、帰ってこないで。死んじゃえ」
小野寺允樹も見えた。昔のまま、十代の姿。いつだって楽しそうじゃなくて、細い竹みたいに頼りない身体。私は手の中の飴を差し出して言った。落ち込んだら、甘いものを口に入れれば少し楽になるよ、と。
彼は笑った。あの頃の、やっと見せてくれたみたいな笑顔で。
「葉月。君の飴、甘いね。嬉しいよ」
……なのに、あとから全部が変わった。
二十歳の兄が急に死んで、允樹は小野寺家の唯一の後継になった。周りの目も態度も一変して、もう誰も彼をいじめなくなった。
それは本当に良かった。私は心からそう思った。けれどいつの間にか、彼は私だけの友だちじゃなくなっていた。
「葉月。清美は君と違う。君みたいに争ったり奪ったりできないんだ。だから今回は、譲ってあげてくれない?」
母も夢に出てきた。眉間に皺を寄せて、同じことを繰り返す。
「どうして清美みたいに聞き分けよくできないの?」
父の声には責める色が混じった。
「清美は俺たちの愛情が欲しいだけだ。病気なんだぞ。お前はどうして何でも奪い合おうとする?」
「夏川葉月。お前が戻ってきてから、この家は一度も落ち着いたことがない」
……ばらばらの夢だった。ぶつ切りの映像が、映画みたいに一コマずつ点滅する。
起きたい。こんな夢の中にいたくない。
なのに身体が言うことをきかない。意識だけが冴えていくほど、指一本動かせなくなる。
頭が割れそうだった。肉体の痛みなんてとっくに置き去りにするほどの、鈍くて重い激痛。
そのとき、誰かが入ってきた気配がした。朦朧とする耳に、会話が引っかかる。
「高熱だぞ。兄貴が抗生剤やったんじゃねえのか? もうすぐ着くんだ、船の上で死なれたら縁起でもねえ」
「ロク兄、顔も膿んでますよ。抗生剤、効いてねえんじゃないですか。兄貴に言いましょう。こんなんで死なせたらまずい」
私は必死に掌をつねった。傷口に触れた瞬間、鋭い痛みが走り、ようやく意識が繋がる。掠れた声を喉の奥から押し出した。
「助けて……チャンスがあるなら……必ず、お礼はする……」
ひとりの声に、わずかな同情が滲んだ。
「その状態でどう返すんだよ……。待ってろ、兄貴に話してくる。船に医者はいねえ、薬探すしかねえな。翔太、水と飯、少しでも入れろ」
慌ただしい足音が遠ざかり、私の意識もまた泥の底へ沈んだ。
次に目が覚めたときも、全身に力が入らない。汗でびっしょりで、長い髪が濡れた布みたいに頬へ貼りついていた。
額に触れる。熱は――引いたらしい。
顔に傷のある男は、もう私をいたぶらなかった。どこからか、やたら大きい服を投げて寄越す。
「上陸だ。そんな格好じゃ目立つ。これに着替えろ」
私は服を握ったまま、動かなかった。
男が鼻で笑う。
「何だ、覗かれるのが怖いのか? 言っとくけどな、お前は欠陥品だ。値札貼って売るだけのモノだ。さっさと着替えろ」
汚れきったウェディングドレスを、私は少しずつ引き裂くように脱いだ。今さら羞恥なんて何になる。目の前で、渡された服をかぶる。大きな布が身体の傷をまとめて隠した。
私は男を見上げ、薄く笑ってみせる。
「ありがとう、兄貴」
男はまだ渋い顔をしたままだった。
「落札されたあとで返品でも食らったら、恨むなよ。そうなりゃお前は臓器のほう行きだ」
船を下ろされ、私はピックアップの荷台に押し込まれた。最初の木箱よりはずっとマシだ。どれくらい走ったのかも分からない。
荷台が開いて地面に降りた瞬間、自分が広い施設の中にいると知る。平屋がずらりと並び、工場の倉庫みたいな造り。なのに、各部屋の扉には太い鉄の鎖がぶら下がっていた。
顔に傷のある男が、適当に一室を指す。
「そこに入れろ。洗っとけ。賢いなら、どうすりゃいいか分かるだろ」
私は小さな部屋に放り込まれた。中には硬いベッドがひとつと、簡易的に仕切られた狭いトイレだけ。外側でガチャリと施錠される音がして、足音が遠ざかっていく。
――ここはどこだ。
私はベッドの縁に腰を落とし、これから何をすべきかを冷静に考え始めた。
あいつの言う通り、顔はもう終わっている。売るなら、顔出しなしの形になるはず。なら私は、身体だけでも「値段がつく」状態に整えなければならない。
今着ている大きな服は、私の体型も傷もすべて隠してくれる。いまの私には防具だ。けれど最後には、完璧に見せる必要がある。
汐見奈緒は服飾の勉強をしていた。私は興味はなかったが、そばにいて多少は覚えた。針と糸さえあれば直せる部分もある。――けれど、この手では無理だ。細かい作業に耐えられない。
今はそんなことより、目に見えるところをどうにかする。
外に出ている腕には、匕首で交差するようにつけられた傷があり、すでに黒ずんだ痂皮になっていた。見ただけでぞっとする色。これを早く落とせば、まだ「見せられる」かもしれない。
トイレに入り、洗面台の蛇口をひねる。冷たい水。私はゆっくり腕を水に浸した。黒い痂皮がふやければ、剥がれやすくなる。
腕を処理し終えると、私は服を脱いだ。
白く滑らかだったはずの肌は、もうない。胸元には煙草で焼かれた痕が醜く残り、傷口から透明な液が滲んで、その周りで黄褐色の塊になっていた。
冷水で汚れを流すたび、薄れていた痛みがはっきり蘇る。歯を食いしばり、眉を寄せ、痛みの中で自分の身体を徹底的に洗った。
痛いほうがいい。
痛くないと、忘れてしまう。
ベッドに横たわり、私はゆっくり目を閉じた。数日は養生して、できるだけ「使える」状態まで戻す。そのあとは――運命の歯車が回るのを待つだけだ。
ドンッ、と木の扉が外から蹴り破られた。
顔に傷のある男が、露骨に嫌そうな視線で私を上下に二度ほど眺め、黒いドレスを乱暴に投げつけてくる。
「傷を治す時間なんかねえ。明日が競りだ。きれいにしとけ。もう一度言っとく。余計な真似したら、明日の朝日は拝めねえぞ」
