第1章 初めての出会い
空港の冷房はやけに効いていて、旅客が途切れず行き交うたび、空気の奥に消毒液の匂いがふわりと混じった。
冬木澪はVIP待合の幅広いアイボリーのソファに沈み込み、細い脚を宙にぶら下げたまま、ゆらり、ゆらりと気だるく揺らしている。足元は洗い込まれて色の抜けたキャンバススニーカー。
口の中でピンクのガムが「パチン」と弾け、すぐ舌に巻き取られる。頬が小さく膨らんだ。
彼女の視線は膝の上の極薄ノートに釘付けだ。覗き見防止フィルムの奥、幽青い光が指先を照らし、十本の指が稲妻みたいにキーボードを走る。速すぎて、残像しか見えない。
光に浮かぶ顔は作り物みたいに整いすぎた童顔。表情はない。
画面の隅に暗号化チャットの小窓がひとつ。文字が目にも留まらぬ速度で跳ねていた。
【ボス、着陸しました?】
【うん】
【ボス、H市は複雑です。くれぐれも安全に……】
【自分の家に帰るだけで何が怖いの】
苛立たしげにエンターを叩く。チャットは瞬時に消え、画面には滝のように流れる複雑なコードだけが残った。
数歩離れたところで、藤堂湊が電話を切ったばかりだった。長距離フライトの疲れが眉間に残り、足止めされた苛立ちがうっすら滲む。片手で眉間を押さえ、もう片方でスマホを握ったまま、秘書から届いたメッセージに目を通す。
【藤堂社長、申し訳ありません。道が少し渋滞していまして】
藤堂湊は言葉もなく息を沈め、画面を消す。
そして無意識に、やや混み合う待合エリアを見渡した。視線が座席の列をなぞり――最後に、ソファに丸まって周囲のビジネスマンたちから浮きまくっている、小柄な影に落ち着く。
大きめのフード付きパーカーが体をほとんど覆い、見えるのは幼すぎる顔と、キーボードの上で舞う両手だけ。あの速さは……遊びの域じゃない。
藤堂湊の深い瞳に、わずかな検分が走る。絵面に妙な違和感があった。
――座ってメールを片付けたい。
周囲を見回すと、空席はその「小さな女の子」の隣しかない。
彼は歩み寄った。濃いグレーのスラックスに包まれた脚は長く、商売の場で鍛えた落ち着いた気配をまとっている。
座面がふっと沈んだ。
冬木澪は、視界の端ですら動かさない。
彼女はいま最後のデータ防壁の前で指を止め、エンターの上に指先を浮かせたまま。
暗号窓がまた一度、ちらりと光った。
【ボス、このデータ硬すぎます! どうすんですか!】
藤堂湊の声が響く。大人の抑制と、礼儀めいた探りが混ざった声。
「失礼」
冬木澪は振り向かない。エンターを、軽く、指で叩く。防壁は一瞬で崩れた。
彼女は一言だけ打つ。
【使えない】
藤堂湊は低く、続けた。
「ノートの充電が切れそうなんだ。充電器が預け荷物に入っててね……よければ、充電器を借りられないか?」
冬木澪がようやく、ゆっくり顔だけ横に向ける。
藤堂湊は背もたれにもたれ、ネクタイを少し緩めていた。喉仏がわずかに覗く。彫りの深い眉骨、硬い顎のライン、目尻には年月の細い刻み。眉はわずかに寄り、その視線には確かに「頼み」の色があった。
冬木澪の澄み切った――無機質にすら見える瞳は、彼の顔に半秒も留まらない。
視線は機械みたいに正確に、彼のノートの筐体にある型番表示を掠め取る。
そして何事もなかったように前へ戻り、自分の画面へ。彼は喋る背景にでもなったかのように。
空気が、二秒ほど固まった。
藤堂湊は眉をさらに寄せる。――この子、聴こえないのか?
次の瞬間。
冬木澪の指が狂ったように踊り出す。目が追えない。覗き見防止フィルムの奥で、複雑なコマンドが生き物のように組み上がり、注入され、実行されていく。
画面は暗転し、深い青のコマンドラインだけが残った。カーソルが狂ったように点滅する。
小指が鮮やかにエンターを落とす。何かを断ち切るみたいに、迷いのない動き。
ほぼ同時に、藤堂湊の膝の上のノートの右下。灰色だったバッテリーアイコンが跳ねた。
緑の稲妻マークが点灯する。
小さな文字が表示される。
【充電中】
藤堂湊は画面を見つめ、瞳孔がきゅっと縮んだ。
顔を上げ、隣の、無害そうな「小さな女の子」を見た。
冬木澪が「パタン」と自分のノートを閉じる。小気味いい音。
動きは大きくないのに、「終わった。余計なことは言わない」という終止符の気配があった。
彼女が体ごと少し向き直る。透き通る瞳がまっすぐ刺さり、ピンクのガムが頬に押しやられて小さく膨らむ。顔だけなら可愛いはずなのに、視線が冷たすぎて空気が凍る。
「さっきから、ずっと見てたのに……」
声は甘い少女のもの。けれど抑揚はなく、冷たいコードを読み上げるみたいに平板だった。
「思いついたナンパが、それ?」
返事も、疑いも、礼を言う暇も与えない。
冬木澪は軽そうに見える黒いリュックをつかみ、片肩に放り上げる。動きは訓練でも受けたみたいに無駄がない。
振り返りもせず出口へ歩き出した。キャンバスの靴音が磨かれた床を刻み、しなやかな猫のように去っていく。
藤堂湊はその場で固まった。喉仏が勝手に上下する。
さっきの視線――すべてを掌握しているような冷淡さが、修羅場を踏んできたはずの彼の胸の奥を、理由もなくぞくりとさせた。
視線をノートへ戻す。緑の充電マークは安定して光っている。
だがいつの間にか、画面の中央に傍若無人な警告ウィンドウが出現していた。真っ黒で、タイトルバーも閉じるボタンもない。
白く発光する大きな文字が、乱暴に突きつけられる。
【次は気をつけて。じゃないと“黒く”なるのは……ワイヤレス充電だけじゃ済まない】
――
空港を出てすぐ、冬木澪は通りの角を曲がり、堂々たるラグジュアリーブランドの店へ入った。
冷気がふわりと押し返し、空気には高級レザーと香水の匂いが重なる。
迷いなく陳列へ向かい、細い指で隅に置かれたデザインの変わった黒いチェーンバッグを指した。
「これ、見せて」
言い終える前に、艶やかな濃いピンクのネイルが塗られた手が、バッグの上に被さった。
「それ、私がもらう!」
甘ったるい声。わざとらしい優越感。
冬木澪が目を上げる。
今季の新作ワンピースに身を包み、メイクも完璧な若い女が、見下すように彼女を測っていた。学生っぽい格好――ここで買えるはずがない、と言わんばかりの軽蔑。
女の名は橋本日奈。藤堂湊の弟・藤堂颯太の恋人で、端役の芸能人。背伸びしたプライドだけは天より高く、藤堂家の兄弟にどこか言葉にできない欲を抱いている。
「先に私が見つけた」
冬木澪の声は平坦で、感情がない。
「見つけたら自分のものって? 聞いたことないんだけど」
橋本日奈は鼻で笑い、カウンターを爪でコンコンと叩く。
「店長! 包んで! 私が買う!」
