第2章 星の泪
店長は一目で分かる、切れ者の中年女だった。
呼ばれるなり小走りで駆け寄り、顔には営業スマイルを貼りつける。けれど視線だけが一瞬、橋本日奈と絡み合い――合図。息ぴったりの、知らん顔。
「かしこまりました、橋本様。すぐにお包みいたします」
「待って」
冬木澪の声は大きくない。なのに、氷柱が床に落ちたみたいに冷たく、店長の手が空中で止まった。
「監視カメラ、あるでしょ。出して。誰が先に欲しがったか見ればいい」
店長の笑みがぴくりと引きつる。すぐに困った顔へ塗り替え、やわらかい口調を作った。
「申し訳ございません、お客様。あいにく本日朝から監視システムに不具合が出ておりまして、ただいま修理の手配中で……」
丁寧。誠実そう。なのに視線は泳ぎっぱなし。
冬木澪の口元が、ほんのわずかに弧を描いた。錯覚かと思うほど一瞬。
彼女は店長も、得意げな橋本日奈も見ない。スマホを取り出す。
画面が点き、細い指がすべる。速すぎて残像しか残らない。
数秒後、指先が軽くトン、と画面を叩いた。
その瞬間。
入口のほうから、落ち着いた靴音が響いた。
藤堂湊が現れた。書類仕事は片づけたが、車は渋滞に捕まったまま。やむを得ず周辺の店舗を回っていたのだ。
――ここは藤堂グループ傘下。社長が自ら顔を出すことなど滅多にない。今日みたいな「特殊事情」でもなければ。
高い背の影が入口に立ち、店内を一瞥するなり、カウンター前で凍りつく三人の空気を一瞬で掴んだ。
「湊兄さん! どうしてここに?!」
橋本日奈の目がぱっと輝き、声が途端に甘くなる。蜜を絡めたみたいに媚びた調子で、腰をくねらせ藤堂湊へ寄り添おうとした。
「ちょうどよかったぁ。聞いてよ、この女が私のバッグを横取りしようとして――」
藤堂湊はさりげなく距離を外し、視線を橋本日奈の向こうへ滑らせた。冬木澪を捉える。
冬木澪はゆっくりスマホをポケットにしまう。童顔には相変わらず表情がない。ただ、藤堂湊を見る目だけが澄んでいて、すべて見透かすように冷たい。
「偶然ね」
甘いのに抑揚のない声。鋭い視線が藤堂湊を測る。
「あなた、ここの社長?」
藤堂湊は頷いた。
「そうだ。何があった?」
冬木澪は答えず、店の中央――いちばん目立つ位置に据えられた独立式の防弾ガラスケースを指さした。スポットライトを浴び、店の“顔”として鎮座するダイヤのネックレス。
「藤堂社長の店、置いてるものが間違ってる」
藤堂湊も橋本日奈も言葉を失う。橋本日奈が大げさに鼻で笑った。
「は? 頭、大丈夫? それ『星の泪』だよ! H市で一本だけ!」
「学生みたいな格好で何がわかるの。国際証明書つきの本物。どこが間違いなの?」
店長も慌てて乗るが、声がわずかに硬い。
「そうです、藤堂社長。本部から特別に――」
冬木澪の唇に浮かぶ嘲りが濃くなる。
「証明書? 番号GD12346」
淡々としているのに、一語一語が妙に正確だった。ガラス越しの光を射抜くような目で言う。
「データベース上の紐づけは、15ctのペアシェイプ主石」
「で、ケースのそれは――」
彼女はわずかに首を傾け、光のクセを拾う。
「目測で最大14ct。強い光を当てると、ごく薄い青の蛍光が出る。HPHT処理の合成ダイヤに典型的な特徴のひとつ」
一拍。
刃物みたいな視線が店長へ突き刺さった。店長の顔から血の気がさっと引く。
「半年前、匿名の依頼で高級偽物の流通経路を追った。そこで見た個体が、この『星の泪』と特徴が一致してた」
「証明書は本物。中身は最高級の偽物。看板商品すらすり替えられる店で、監視が『今日ちょうど壊れた』とか――そりゃ不思議でもないよね」
言い終えるより早く、冬木澪はスマホ画面を藤堂湊と橋本日奈へ向けた。
画面は分割され、店内各所の監視映像がリアルタイムで映っている。
そのうちのひとつが、数分前のやり取りを再生していた。
橋本日奈が冬木澪の手を押しのけた瞬間。店長が橋本日奈の目配せを受け、監視故障をでっち上げた流れ――全部。音声まで。
橋本日奈の顔が、さっと真っ白になった。口を開けたまま固まる。
店長は膝が崩れ、大理石の床にへたり込んだ。死人みたいな顔。
藤堂湊は映像を凝視し、次にネックレスを見た。輝きは同じなのに、いまは影が差して見える。
そして最後に――磁石に引かれるように視線が冬木澪へ戻る。
衝撃。検分。探究。
それだけじゃない。言葉にしづらい、強く惹きつけられる光が、深い瞳の奥で弾けた。
――誰だ、この子。
洞察、技術、状況判断、核心を突く鋭さ。どれも普通じゃない。
証明書付きの最高級偽物を一目で見抜き、数秒で店の監視に無音で入り込み、死角まで押さえる。
藤堂湊の脳裏で、点が線になる。
――空港で充電システムを「直した」あれも。
この少女は、ただの少女じゃない。トップクラスのハッカーだ。
「申し訳ない」
藤堂湊の声が低く、揺るぎなく響く。
「管理不行き届きで、お恥ずかしい」
続けて店長へ冷ややかに言い放つ。
「そのバッグは冬木さんに。こちらの詫びとして、俺の負担で包め」
「偽物と監視の件は徹底的に調べる。関係者は厳正に処分する」
「湊兄さん!」
橋本日奈が甘えて縋ろうとする。
藤堂湊の目が向いた瞬間、空気が冷えた。距離が生まれ、無言の圧がのしかかる。
「橋本日奈。颯太が迎えに来るだろう」
「今の姿を見せたいのか? 騒げば騒ぐほど、おまえの立場が悪くなる」
橋本日奈は喉元を掴まれたみたいに黙り込み、顔を赤くしたり青くしたりした末、悔しげに踵を鳴らした。
手持ちのバッグをひっつかみ、冬木澪をきつく睨みつけてから、足早に店を出ていく。
冬木澪は店員が恐る恐る差し出した箱を受け取り、雑に提げる。
「受け取った」
藤堂湊を見る。表情は変わらないが、瞳に査定の色。
「でもさ。こんだけデカい店で、看板が“証明書だけ本物”の偽物。監視は飾り。スタッフは結託して客を潰す」
軽く首を振る。嫌悪を隠しもしない。
「H市トップ? 笑わせる」
「……みっともない」
それだけ言うと、また背を向けて歩き出した。藤堂湊に言い訳の余地すら与えない。
藤堂湊はその場に立ち尽くす。
みっともない――。
その一言が、小槌みたいに胸を叩き続ける。
不快じゃない。むしろ――面白い。
探りたい。近づきたい。
そんな衝動が、安定を信条にしてきた男の胸の底から、初めてはっきりと湧き上がっていた。
