第3章 攻撃
深夜、藤堂家の旧宅。
藤堂湊は帰宅してからずっと、書斎の幅広い革張りの椅子に沈み込んでいた。
グラスの中で高級ウイスキーがゆらりと揺れ、氷が触れ合う「チリ……」という乾いた音が、やけに静かな部屋に刺さる。
それなのに目の奥では、空港で見た――幼すぎるくせに冷静すぎたあの顔と、ブランド店で投げつけられた一言が、何度も何度も揺れた。
――みっともない。
澄みきった、無機質にすら見える瞳。
自分が積み上げてきたものの奥まで、すっと貫かれるような錯覚。
「兄? 兄!」
明るいのに、どこか不満を混ぜた声が思考を割った。
藤堂湊は肩を跳ねさせ、現実へ引き戻される。
床まで届く窓の前で、藤堂颯太が腕を組んでこちらを見ていた。光が若い輪郭を縁取る。眉目には少年らしい勢いが残っているのに、口元だけがわずかに下がっている。兄の上の空が気に食わないのだろう。
「話しかけてんのに、何ぼーっとしてんだよ」
颯太は歩み寄るなり、向かいのソファへどさりと座った。長い脚を投げ出し、行儀の悪さすら若さの勢いで押し切る。
「橋本日奈がさ、今日、泣きながら電話してきた。店で恥かかされたって。兄が、訳わかんねえ生意気な小娘の肩持って、日奈をいじめたとか……何それ」
「どういうこと?」
藤堂湊はグラスを置き、無意識に冷えたガラス面を指でなぞった。
「訳わかんねえ生意気な小娘?」
声は低い。感情は読み取れない。
「颯太。おまえの女、躾けろ」
「は? 何それ。『俺の女』って言い方やめろよ」
颯太が眉を寄せる。若い顔に露骨な不快が浮いた。
「日奈は子どもの頃から一緒だろ。性格はちょっとワガママだけど、人は悪くない」
「で、その女は何者なんだよ。学生みたいな格好だったって聞いたけど、兄の趣味いつから――」
「もういい」
藤堂湊が遮った。顔を上げる。静かなのに、逆らえない圧が落ちる。
「橋本日奈は店長と結託して嘘をついた。先に見ていた客から商品を力ずくで奪おうとし、立場で店員を押した」
「それはワガママじゃない。品性の問題だ。藤堂グループの看板を叩き割る行為でもある」
「それに――」
一瞬、冬木澪の指先の残像が脳裏を掠める。スマホの画面に浮かんだ監視映像の光。
「その相手は簡単に触れていい人間じゃない。橋本日奈じゃ太刀打ちできない」
「仕事を守りたいなら、近づくな」
颯太は言葉に詰まった。面子が潰れ、反論しかけた――その瞬間。
けたたましい着信音が、張り詰めた空気を切り裂いた。
藤堂湊が画面を見下ろす。高村の緊急回線。迷わず出る。
「言え」
受話口の向こうは明らかに取り乱し、切迫していた。
「藤堂社長! 大変です!」
「市場部の中核データサーバーが高強度の攻撃を受けています!」
「手口がえげつなくて……防壁が、持ちません! 機密と入札中の案が漏れる恐れが……技術部が、手の打ちようがなく……!」
藤堂湊の瞳孔がきゅっと縮む。さっきまでの茫然が、一気に刃へ変わった。
「市場部は藤堂グループの命脈だ。最上位の非常対応を起動しろ。技術部長と――」
「全部試してますが、攻勢が強すぎて……止められない可能性が!」
高村の声が震え、今にも泣き出しそうだった。
「それと、システム内に変なマークが……欠けた勾玉みたいな……!」
欠けた勾玉――。
藤堂湊の胸が沈んだ。空港で、あの少女が充電システムを弄った瞬間。画面の片隅に、似た欠片を見た気がする。
偶然か?
違う。
星の泪の偽物を一目で見抜いたこと。店の監視を正確に落とし、死角まで押さえたこと。
断片が一本の線になって、脳内で繋がる。
藤堂湊の呼吸が一拍だけ止まり、次の瞬間、決断が落ちた。
「ある人物に連絡しろ」
声は断固としていた。破釜沈舟の響き。
「女だ。今日H市に来たばかりの、極秘のトップハッカー」
「手段は問わない。金も問わない。今すぐ見つけて、動かせ!」
――
深夜十一時。冬木澪は別荘の門の前で、鍵を指先でくるりと回した。
二階の灯りを見上げ、口元に温度のない笑みを作る。
扉を開けた瞬間、濃い鶏スープの匂いが押し寄せた。薬草の苦みの奥に、甘ったるい違和感が混じる。量を誤れば心拍を狂わせるやつ――そういう種類の甘さだ。
「澪? あら、やっと帰ってきたのね!」
小林花子がエプロン姿で台所から小走りに出てくる。驚きよりも、予定通りといった顔。
背負っているバッグを受け取ろうと手を伸ばすが、澪は目立たぬ動きで避けた。
「こんな時間にスープ?」
視線が、湯気を立てる土鍋へ落ちる。
「明日は……あなたのお母さんの命日でしょう……」
花子の目元が赤い。声は柔らかく、いかにも優しい。
「帰ってきたならお参りするでしょう? 滋養のあるものをって思って。花子さんの代わりに持って行ってくれる? ね?」
冬木澪は答えないまま鍋の前へ行き、浮き沈みする薬草を見下ろした。湯の色が不自然に黄味がかっている。
唐突に柄杓で一杯すくい、花子の瞳孔が縮むのを正面から見ながら、唇の近くまで持ち上げる。
「毒のある素材……」
小さく告げる。声は平坦。
「皮を剥いで薄切りにして、蜂蜜に漬けた。発現を遅らせるため」
柄杓が傾き、スープがぽた、ぽた、と床へ落ちる。
「花子さん。計算ミス」
花子の顔から血の気が引いた。澪が身を守るために国外で薬理まで独学していたことなど、想定外だ。
それでも花子はすぐ、引きつった笑顔を作る。
「澪、何を言ってるの。私がそんな――」
「安心して。父が帰ってきても言わない」
冬木澪はバッグを肩に掛け直す。
「あなたを信じきって、結婚の準備に忙しい。母の死の真相を追う気もない人だし」
背を向け、階段へ。
「スープは自分で飲んで。うちの母には要らない」
二階の廊下の奥。部屋は当時のままだった。
冬木澪は鍵を掛け、机の隠しから色褪せた薬袋を取り出す。母が残した最後の品。
中の残滓を台灯の下で丁寧により分け、指先で捻る。
「マンダラ……」
乾いた花弁。
当時の検査報告に記された毒物と一致する。
窓の外で稲光が走り、澪の瞳の底に渦巻く暗色を照らした。
「小林花子。配合を変えたくらいで、誤魔化せると思った?」
「母で失敗した手を、私でもう一回試すなんて……ほんと、手間のかかる人」
