第5章 マルチスキル

さらに十分後――。

藤堂グループ最上階。

社長室の重い両開きの木扉が、どん、と力任せに押し開けられた。

緩衝器にぶつかって鈍い音が響き、外の秘書デスクにいた高村がびくりと肩を跳ねさせる。

ようやく危機が収束し、藤堂湊がこめかみを揉んでいたところだった。音に顔を上げ、来訪者を認めた瞬間、瞳孔がきゅっと縮む。

「藤堂社長、H市じゅうで私を探してたんでしょ。誤解されてもいいの?」

冬木澪はソファに腰を下ろすなり足を組み、顔も上げずにスマホをいじる。画面の不気味な灰色が、彼女の頬を薄く染めた。

だが藤堂湊は怯まない。むしろ、目の奥の冷たさがほどけ、口元がわずかに吊り上がる。

「何を誤解する?」

「未成年を攫ったとか?」

冬木澪がようやく視線を上げる。白黒のはっきりした瞳に、ただ『くだらない』の文字。

互いに察しがいい。だからこそ、そのまま話を続けた。

「藤堂慎一。あなたの父親の名前?」

藤堂湊は頷く。迷いと戸惑いが、ほんの少しだけ滲んだ。

「そうだ。ただ、父はもう亡くなっている……冬木さん。今日の件が、父と何の関係が?」

次の瞬間、冬木澪が鼻で笑った。

「今日、誰が理由もなく藤堂グループの市場部を落としたと思う?」

「……当たりね。藤堂家の当主が飾りって、笑えない」

そう言いながら、冬木澪は藤堂湊を二秒だけ見つめる。ふっと、悪戯みたいな笑みが浮かんだ。

藤堂湊の目が深くなる。喉仏が小さく上下した。

――この女は。

砕きたくなるほど生意気で、征服したくなるほど冷静だ。

だが冬木澪の言葉は、藤堂湊の思考を深く沈めた。父が残した極秘ファイル。社長である自分ですら、何年もアクセス権がなかった。

まさか父の“極秘”は、藤堂グループを自壊させる起爆装置なのか。今日の侵入も、そのファイルを狙って――。

なぜ父は、実の息子に時限爆弾を残した。

胸の奥を、巨大な恐怖が掴む。血縁に計られた寒気が背骨を這い上がる。

それでも藤堂湊は平静を装い、言葉を探した――が、冬木澪が先に切る。

「防壁は戻した。礼はいらない。条件がある」

冬木澪は机へ歩み、スマホに映した『突破成功』の画面を藤堂湊に突きつけた。距離が近い。雪松の淡い香りに、コーヒーの苦味が混じって漂う。

藤堂湊は一瞬だけ止まり、机上を一瞥してから、笑みを含んだ目で彼女を見た。

「悪いが、ここまでだ」

「報酬は払う。だが父のことを探るなら、藤堂グループから出ていけ」

「君は信用している。だが私は商売人で、藤堂家の人間でもある」

「忠告?」

冬木澪の目が、淬毒の刃みたいに細く尖った。

「藤堂湊。勘違いしないで。父親の昔話に興味はない」

「道は二つ。私が助けた代わりに、このファイルの裏を全部教える。藤堂家がなぜ持ってるのか、正体は何か」

「それが嫌なら、私が持って消える。あなたの最後のチャンスごとね」

藤堂湊の眸色が沈む。次の瞬間、彼は冬木澪の手首を掴んだ。強くはない。だが逃げられない。

声が低く落ちる。

「冬木澪。少し調子に乗りすぎじゃないか」

興味はある。けれど今の彼にあるのは、藤堂グループを守る――それだけだ。

「信用して報酬まで用意したのに、脅すのか」

冬木澪の視線は刃のまま、言い放つ。

「なら答えて。プロジェクト『ブラックアイス』って何。清理指令の対象は誰」

そして、彼女は珍しく崩れた。

「藤堂湊。揉めたいわけじゃない。藤堂グループの危機に乗じて脅してるんでもない」

「でも……言え。関連索引に私の父の名前があるのは、どういうこと?」

「それだけは、知る必要がある」

藤堂湊の額に冷や汗が滲む。なぜ冬木澪の父まで。頭の奥が轟いた。

「父は何も……索引は、昔の共同プロジェクトかもしれない。調べる時間が――」

「ない」

冬木澪が遮る。眉が苛立たしげに寄った。

「条件は変えない。今日から情報共有。同時進行」

「今すぐ、藤堂グループ主データベースの深層ログへのアクセスを承認して。生成と改竄履歴を追う。小細工するな。私の忍耐は長くない」

藤堂湊の顔色が抜ける。虚言ではない。侵入は一度で終わらない。二度、三度――必ず来る。

極秘ファイルは唯一の鍵であり、頭上の剣だ。

藤堂湊は短く冬木澪を見つめ、やがてスーツの内ポケットから小型の暗号化USBを取り出した。

「最高の臨時権限。三時間」

早口で告げる。

「端末パスは0503」

――その後の十数分。

冬木澪は社長椅子に座り、指を走らせた。画面のデータが滝みたいに流れ続ける。

藤堂湊は机にもたれ、コーヒーを手にしながら、視線だけは彼女から外さない。

冬木澪が顔も上げず、冷たく言う。

「そんなに見て。私がついでに核心データ全部抜くのが怖い?」

藤堂湊は低く笑い、コーヒーカップを彼女の手元に置いた。コト、と小さな音。

「抜いた回数が少ないみたいな言い方だな」

どこか気だるい、許すような口調。

「無駄な力を使うな。探すものに集中しろ」

冬木澪は一瞥しただけで返さず、ファイルを追う。

ふと指が止まる。眉がわずかに動いた。

「担保付社債?」

小さく、専門用語を転がす。

藤堂湊が固まる。目が鋭くなった。

「……それを知っているのか?」

冬木澪は答えない。画面を素早くスクロールし、数行だけ拾っていく。

「レバレッジが高すぎる」

淡々と言い切る。

「この組み方、相場が揺れたら資金繰りが一気に崩れる」

藤堂湊の瞳に驚きが走り、すぐに評価へ変わった。

彼は身をかがめ、腕を椅子の背の両側に置く。声が低い。

「冬木澪。君は何者だ」

「ハッカーが金融モデルまで? イタリア語まで?」

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